ニセモノを愛そう
- 2023.01.18 Wednesday
- 22:37
ビールを呑みながら、キッチンにポツンとある、いつ使われるかも分からない輪ゴムを見つめて物思いにふける。
ゴムはその性質上、とても伸縮弾力性に富んだモノだ。
だけれども、そこにストレスを与えて伸ばしっぱなしなりグルグル巻きなり、しばらくそのままの状態で放置し、その後再び使おうとする時に彼はどうなっているか。
きっと伸びきってゴムとしての存在価値が失われ、たぶん使い物にならなくなっているだろう。
そうなるとその先に待っているのは、プツリと音もなく切れるのみ。
そう、音もなく。
ただプツリと、ひっそりと。
そう考えると、ゴムは伸びたり縮んだり、そうしたことを繰り返しているほうが、よっぽどゴムとしての性能は発揮出来るし、同時にその性能を維持出来る。
それでも切れたのなら仕方ない。
それはもう、天寿の全う。
寿命なのだ。
そんなことをぼんやり考えていると、ゴムの性質と心の性質は似ているような気がしてきた。
元々心も伸縮性に富んだ柔軟なモノだったはずなのに、世の中の面倒なことや人間関係のうすのろで緊張状態が続くと、心もゴムのようにすっかり伸びきってしまい、伸びきってしまっただらしない心は健全な感情の動きを失って、ある日突然音もなくプツリと切れる。
そう、やっぱり音もなく。
音も無いから誰も気付かない。
気付いてもらえたならそれは幸福かも分からないが、気付いてもらえることのほうがむしろ稀だろう。
そう考えてみると、心は伸びたり縮んだり、常に動いているほうがいいのだ、とやっぱり思う。
けれど心には真ん中があるでしょう。
我々の住む太陽系でいえば太陽のような、そんなモノ。
そんな太陽のような心の真ん中だけには大事なモノを詰め込んで、その他のモノはその周りをグルグルと動き回っていればそれでいい。
そうすれば感情は常に朝と夜を繰り返して、陽の光に感謝し、月の光に癒される。
そしてそんなふうに動き続けることも含めて、一つのことをずっと続けてゆくために一番大事なことは、我々が夜には体を休めて眠るように、いかに力を抜くか、ということがやはり何よりも大切になってくる。
では、それをするにはどうすればいいか。
それはニセモノを否定するのではなく、まるごと愛してしまうことなんだろう。
僕は、真実を追求してキラキラとした目で熱っぽく語る目の前の若者の言葉たちに対して、キミは間違っているだとか、世の中はそんなに甘くない、みたいなことは言わない。
というより言えない。いや、言うつもりもないし、言えるはずがない。
何故なら僕も二十代中頃まではそんな調子で日々を過ごし、アメリカへ行けば絶対夢が見つかるはずだ、何かが変わるはずだ!と本気で思い焦がれ、ほぼ勢いだけを頼りに単身N.Y.へ飛び出して一年ほど暮らしてみたり、それでもまだ自分探しの旅などと称してアジア放浪の旅へ出ていたような人間だからだ。
けれども実際に行ってみても、想像していたような夢、いや、そもそも探していたアメリカなんてものはどこにも無かったし、自分探しをしようにも、そもそもホンモノを見極める力が備わっていないのだから自分を見つけられるはずもなく、あれも違う、これも違う、と否定ばかりを繰り返していた。
あの頃は、否定することから夢を生産しようとしていたのだろうね。
そしてインドのような信仰深い国へ行き、歴史ある宗教や文化を肌で感じたりしても、宗教や文明というモノの根本は、、、なんて、こんな乱暴でデリカシーの無い書き方をしたら憤慨されそうだけれども、そんなモノはすべて暇つぶしに考えて作り出されたモノとしか思えなくなってきた。
人生の中でしていることなど、究極の暇つぶしに過ぎない、という考えは、とうの昔から先人さんが口にしている言葉だ。
もちろん、その思考は人々の心の中心にあるわけではなく、片隅のほうでじっと鎮座している思考なのだろうけど、これは決して諦念感情のそれとはまったく別のモノだ。
ホンモノの本質を追求してゆく行為や思考を繰り返していくと、どうにもこうにもニセモノが許せなくなる。先述した若者のように、そしてかつての自分のように。
周りの人間たちがみんな頭空っぽのバカに思えてきたりして、バカじゃねーのかこいつらは、などと思っては時には軽蔑までしたりして。
けれどもそういう時って、実は自分も同じように空っぽなニセモノなのだ。
そんな乱暴な気持ちになるのは、自分ばかりが頑張っていると勝手に思い込んでいたからなのだろうね。
けれどもやがて追求することにも飽きて一度体の力を抜き、その隙間で心に少しゆとりが持てるようになると、世の中には実に楽しめるニセモノが溢れていることに気付く。
あぁ、バカだなぁ、こんなものを作って!なんて言いながら笑ってしまったり、気が付いたらそれを手にしていたり、挙句買ってしまっていたり。
それで案の定すぐに壊れて悔しがったりしてね。
でもそれは騙されたのではなく、ニセモノに対しての対価だから、驚いたり笑わしてもらった段階ですでに許していたはずなのだ。
例えば100円ショップなんてところはいい例だろう。
世の中にはホンモノに近いニセモノ、というモノのがたくさん溢れていて、大雑把に分別してしまえばニセモノだらけの世の中だと思っている。
だからホンモノを知るためには、自分がニセモノを経て、そしてニセモノに触れて痛い目に遭うくらいではないとホンモノに出逢えない。
ニセモノを経るという中には、自分自身もニセモノで、そんなニセモノな自分に失望する、という痛みももちろん含んでいなきゃいけない。
身近に体験出来ることでいえば恋愛もそうかもしれない。
今付き合っている人や好きな人が一番でホンモノだと思っていても、それ以上の人と出逢って恋焦がれたら新しい人のほうがホンモノになるだろう。
けれどそれでかつての恋人や好きだった人がニセモノになるのかといえばそれは違う。
だから人生は、ホンモノはどこにあるのだ、と探し歩く、巡り巡る永遠の旅。
もしくは、あれがホンモノだったのかもしれない、と憂う追憶の旅。
そう思うとね、自分なんかニセモノだ、って思っているくらいのほうがちょうどいい気がするのだ。
そういうプロセスを経て、やっぱりホンモノが欲しいと思えばそこへ向かう。
だってそれはそれは強烈に欲しいのだから。
けれども人間の集中力なんてそう長くは続かない。
だから無駄なことに時間を費やす。
無駄だと判ってやっていることならそこに意味はあるし、無駄を愛せることは他人のダメな部分を愛せることでもある。
だってくだらないことをして笑っている時間のほうが多いではないか、人の日常なんて。
もちろん頑張っている。みんな頑張っている。
けれども日々の忙しさに翻弄されてくだらないことまで放棄してしまったら、あてのない散歩ですら無意味なモノになってしまう。
そんなはずはない。
勝れた暇つぶしは、下手な努力よりもずっと有益かも分からないのだ。
俺は大丈夫か、と自分に問う。
あの人は、あの子は自分の傍にいて退屈な思いをしていないか。
と自分に問う。
不安だ。やはり不安だ。
けれどもそれくらいがやっぱりちょうどいい。
だって自分なんてまだまだニセモノなのだ。
ニセモノを知るからこそ、ホンモノが恋しく、そして愛おしく思うのだから。
ニセモノを愛そう。
ホンモノに出逢うために。
心を動かそう。
柔軟で、正直な心に出逢うために。
そしたらホンモノはすぐ傍にあるのかもしれないんだぜ。
ただ心が目をつむっているだけで。
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