「まりも」

  • 2019.10.19 Saturday
  • 21:00
良太と奈緒が、まだ二歳になって間もないくるみを車に乗せて、良太の学生時代から仲良くしている後輩カップルの結婚パーティーへと招待されたのは、年の瀬も近付いた十二月の師走中頃のことであった。
その日、同じようにその結婚パーティーへ招待されていた友人のみどりと愛娘である三歳のカスミが、パーティーが始まって間もない頃、テーブルの上に置いてあったフォークを握りしめたまま足のつかぬ椅子から降りようとした際に誤って前のめりに転んでしまい、手にしていたフォークの先が鼻の穴に突き刺さるという事故が起きた。それは本当に一瞬の出来事で、フォークの先の四本のうちの三本が鼻の穴から外へと向けて貫通してしまうという事故だった。
自分の身に何か大変なことが起きたことを察したカスミは、その小さな体を震わせながら泣き、みどりは、大変!と言って血相を変え急いでカスミを抱きかかえると、小走りでパーティー会場の外へ出ていった。
良太と奈緒も目の前で起きた突然の出来事に正直心が慌ててしまったのだが、あまり大げさにならないように静かに二人を追うと、会場入口を出てすぐの廊下で、どうしよう、どうしよう、とカスミの頭を撫でながら必死に介抱しているみどりがいた。奈緒はそんなみどりの背中を優しくさすってやり、良太は泣き叫び続けるカスミに、大丈夫か、傷見せてごらん、と言ってカスミの顔を覗き込んだ。

「大丈夫かな、大丈夫かな、酷いことになってないかな、痕残っちゃうかな、大丈夫かな」

みどりは激しく動揺した様子でしゃがみこんでしまって、良太がその場から少し離れて119番しようと携帯電話を取り出した時、すぐに駆けつけてきたホテルの支配人に自分が今怪我をした女の子の母親の友人であることを述べたあとで状況を簡潔に説明し、我々はその場で救急車の到着を待った。
しばらくしてすぐに救急車が到着し、二人の救急隊員に促されたみどりがカスミを抱きかかえて救急車に乗り込むと、パーティー会場に残されたままの荷物を取りに戻っていた奈緒が戻ってきて、見送る良太と奈緒に向かって、こんな時にごめんね、ごめんね、と手を合わせながらみどりは言った。
ホテルのロータリーエントランスにバウンスしてより大きさを増した救急車のサイレンが鳴って救急車がホテルを出発すると、良太と奈緒はみどりとカスミを乗せた救急車をずっと目で追い続けた。そして救急車が遠くの交差点を曲がってその姿が見えなくなると、良太と奈緒は同時にふぅ、と一息大きな息を吐いて、顔を見合わせて少し笑った後で、大丈夫かな、とお互いに言いながらパーティー会場へと戻った。会場では同じ円卓に同席していた何人かの人たちに、何かあったんですか?と尋ねられたこと以外、つい先ほど起きたカスミのフォーク騒動に気付いた人はいないようで、そこにはただ、平和で、祝福に満ちた雰囲気が温かく漂っているだけだった。良太と奈緒はその祝福ムードに水を差すようなマネなどしたくなかったので、そのような事故が起きたことは後輩カップルには伏せたまま談笑し、パーティーの間中、シングルマザーですべての日常と愛情をカスミに注いでいるみどりの気持ちとカスミの容態に気を揉みながら、どこか不謹慎な気持ちに包まれながらも、良太は余興として頼まれていた歌を少し大げさにはしゃぎながら歌った。
余興が終わると、まるでその時を遠くから見計らっていたかのように先ほどの支配人が良太のところへとやってきて、怪我をしたご友人のお子様ですが、順天堂病院へ運ばれました、と教えてくれて、病院の電話番号が書かれてあるメモを良太に渡してくれた。
カスミが救急車で運ばれてからパーティー終了までにすでに二時間は経っていた。でもパーティー会場から順天堂病院までは大した距離ではなかったので、支配人からその旨を伝え聞いた時から順天堂病院までみどりとカスミを迎えに行ってやるつもりでいた良太だったが、無事ならばとっくに病院を出ているかもしれない、とも考えた。けれども病院へ行って、二人がいないならいないでそれでいい、と考えた良太は、パーティーが終わって後輩カップルに挨拶を交わした後で、救急車に乗り込んだ際に見せたみどりの不安そうな表情を思い浮かべながら、奈緒とくるみを車に乗せてそのまま一路順天堂病院へと向かったのだった。

病院へ到着して急患の窓口の前に立った良太が窓口の向こうに座る年増の女に事情を話すと、ついたった先ほど手当てを終えたばかりで、幸いにも女の子は大事には至らなかった、という話を聞き、あぁよかった、と胸を撫で下ろした良太と奈緒は、病院の正面入り口でみどりとカスミを迎え入れると、みどりはひどく感謝した様子で、ありがとう、ありがとう、と繰り返して口にした。
気にしない気にしない、と良太は言って、いつまでも恐縮して遠慮しているみどりを無理やり後部座席へと誘うと、よく頑張ったね、と言いながら奈緒はしゃがんでカスミの真っ赤な頬っぺたを覆ってやり、よーし、出発!と良太は言って西へと車を走らせたのだった。
クリスマスがすぐそこまで近づいている街のあちこちでは、派手なディスプレイで彩られた店やツリーの数々がまるで競い合うかのように多く立ち並んでいた。しかし運転する良太からルームミラー越しに映るカスミはそんな窓の向こうの景色にはまるで興味がないようで、絆創膏で固められた小さな鼻をその小さな手で押さえながら、その小さな両足をちょこんとこちらに向けて大きなあくびをしている。

「鼻に三つも穴空けて、鼻の通りがよくなっただろうカスミぃ〜!」
「ちょっとぉ!何でもかんでもネタにして笑いにしたがるんだからぁ!」

良太の冷やかしの言葉にそうふて腐れて抗議するみどりの言葉には、娘が無事であったことを安堵に思う母親の愛情が微笑ましいほどに溢れていて、その響きは良太をひどく楽しい気持ちにさせた。そんなみどりとカスミ、奈緒とくるみを乗せた賑やかな車がのんびりと目白通りを走っていると、

「あっ、この次の交差点を左にお願い。えーっと、早稲田通りね」
みどりは運転席と助手席の間に身を乗り出すようにして良太に言った。

早稲田通り…

この通りには、かつて良太が交際していた香織と四年と三ヶ月同棲していたマンションが建っている。
展望がいいことと、ベランダというよりもテラスと呼んだほうが相応しい広いスペースのベランダがあったことから、それが決め手となってその場で借りることを即決したその部屋からは、早稲田通りを広く見下ろすことの出来る環境にあり、加えて部屋が最上階であったことから屋上へも上ることが出来たため、噂のテラスもどき見たさに友人たちがよく訪れては、季節を問わずBBQパーティーをよくしたものだった。
普段の日、良太が毎朝アルバイトへ出掛ける際には、香織は決まってベランダに出てきては、早稲田通りを駅へと向かって歩く良太に向かって、ベランダの広さを余すことなく使うかのように大きく手を振っていた。

あれからもう五年も経ったのだ。
いや、まだたったの五年しか経っていないのだ。

良太には、良太がカナダに留学していた二十歳の頃から飼っていた「まりも」という名前の雑種の雄猫がいた。白と黒のブチ猫で、まだ「まりも」が生後三ヶ月の時にカナダでの日本人の友人から、ウチの猫がめんこい仔猫を五匹生んで、今里親を探しているんだけど、お前猫好きだったよな、見に来ないか、と言われて、あくる日の晴れた日曜日の午後に軽い気持ちでその友人の家へ遊びに行った良太だったが、他の仔猫たちには目もくれず、一目見て「まりも」を気に入ってしまった良太は、その日着ていたデニムのオーバーオールの胸元に収めて、友人の家を後にした。普段はなかなか時刻表通りにやって来ないバスに苛立っていた良太も、その日だけは胸の中でミャアミャアと鳴いている「まりも」に魅入られて、やって来たバスを二本乗り過ごすほど、もうすでに「まりも」に夢中になっていた。

「小さいなぁ、、、なんてやわらかくて丸くてかわいいんだ」
良太はそう「まりも」に話し掛けて、その時に良太の頭の中に浮かんできたのが、あの、フワフワとしたまんまるいまりもだった。今思えば何て身勝手で無責任な飼主だったんだ、と良太は反省しているが、動物として、そして留守ばかりさせてしまう「まりも」には、せめて食べることだけは不自由させたくないという思いから、「まりも」が少しでも餌を欲しがるような素振りを見せようものなら一日に何度も猫缶を与えていたせいで、一時は十三キロまで体重が増えてしまい、転がったほうが速く歩けるのではないか、と思うほど、本当にまりものような丸い体型になり、お腹の肉を床にこすりつけながらノッシノッシと歩くふてぶてしい猫になってしまった。

「なーんか俺が未来に想像していた姿とはまるで違うぞおまえ!」
良太はよく「まりも」にそう言って、肉の付きすぎた「まりも」のお腹を両手で掴んで揺らしては「まりも」に怒られたものだ。
良太が留学期間を終えてカナダから日本へと帰国する際、動物は機内に持ち込めない、と友人たちから聞かされていて「まりも」をどうやって日本へ連れて帰ろう、と思案と不安の日々だったが、いざ航空会社へと出向いて相談してみると、呆気に取られるほど呆気なくチケットの手配をしてくれて、良太は航空会社のカウンターの女の子が「OHHH!!!」と胸を押さえて驚くほどの歓喜の声を出した。
その時の良太の声を文字に起こして表すとしたら、きっとこんな感じだろう。
「∽♂%≧$△?℃ーーーー!!」
まぁ簡単に言ってしまえば、言語として存在するかしないかくらいの、?ぉ''ぉ''ぉぉぉおーー!みたいな歓喜の声である。
そりゃ文字化けもする。

しかしあろうことか、いくら「まりも」が猫界の中ではヘビー級、人間の相撲界で分かりやすく例えれば、平成の名大関、小錦関のようなちょっと太り過ぎな体躯だからといって、人間のそれと比べたらサイズも重量もはるかに小さいはずなのに、しっかり大人の人間一人ぶんの飛行運賃を支払わされてひどく驚いたものだが、やっぱり「まりも」を機内に持ち込めて共に帰国出来る喜びと安堵の気持ちに胸を撫で下ろした良太は、カウンターの女の子だけに留まらず、そこにいた航空会社の人たちにサンキュー!サンキュー!と感謝の言葉を述べて、勝利者の勇者のような気持ちで航空会社を後にしたのだった。

バンクーバー国際空港を離陸する前からベルトサインが消えるまでの間、良太はペットキャリーバックの隙間から「まりも」のやわからな手を握りながら声をかけ続けた。
「まりも、俺の故郷へ連れて帰るぞ、しばらくの我慢だ、がんばれ」
手を前に揃え、上目遣いで良太を見て、始めは堪忍したような様子を見せていた「まりも」だったが、しばらくするとすぐにキャリーバッグの中でソワソワと落ち着かなくなり、どこから声を出したらそんな声が出るのか、と思うくらいの低い声で鳴き始めた。
「まりもー、ごめんな、大丈夫だから」
それも当たり前だろう、「まりも」のいるネコの世界からしてみれば、猫が空を飛ぶなんてことは想定外のことだろうし、良太にしてみても、キャリーバックに入ったままこれから十時間以上もの時間を過ごさなければならない「まりも」のことを考えると不安な気持ちは隠せなかった。
耳がツンとする。「まりも」は耳を下に向けて固まったまま、時折良太をじーっと見つめたり、狭いキャリーバックの中で頭上を見上げながら立ち上がろうとしている。握っている「まりも」の肉球が汗をかいて湿ってきた。猫も人間と同じように気圧の変化の影響を受けて耳がツンとしたりするものなのだろうか、と良太は考えた。「まりも」の汗ばんだ手を握りながら、良太は窓の下の景色に目を向ける。宝石箱をひっくり返したような夜景という形容は確かにその通りだ。だからといっていつまでも窓の外を眺め続けることなんて出来るわけもない。猫は座席に備え付けられてあるイヤホンで音楽も聴かなければ機内映画も観ないし、ましてや読書なんてするわけもない。人間だって退屈極まりないこの世界で、これから十時間以上も「まりも」は過ごさなければならないのだ。考えてみたらトイレはどうするのだ!ペートシーツはある、だが匂い対策はしていない!良太は再び驚愕して「まりも」を見やると、「まりも」は良太を冷たく一瞥して、再び低い声でウワォォン、と鳴いた。

その「まりも」の鳴き声がまるで合図のように機内のベルトサインが消えると、静かだった機内がベルトを外す金具音や座席の擦れる音で包むように支配し、人々は立ち上がって息を吹き返す。トイレに行く人、頭上の棚からスーツケースを取り出す人、スチュワーデス(当時はまだ客室乗務員との呼称は付いていなかった)が飲み物カートに飲み物をセットする音、とにかく飛行機の中で聴く音は、どれもこれも日常の中で聴いている音とは異なるように良太は感じた。たぶん、飛行機のジェットエンジンの音がベースとして流れているからなのかな、なとど他愛もないことに思考を巡らせながら良太が「まりも」に再び目を移すと、「まりも」がまるで犬のように舌を出してはぁはぁ、と息をしている。
「あぁ、まりもー、もう大丈夫だ、安心しろ、これからお前は自由時間だ」
良太はそう言うとキャリーバックのチャックを全開にすると、「まりも」の目の前には新しい世界が広がった。「まりも」がキャリーバッグの中から勢いよく逃げ出して機内を走り回り、乗客の悲鳴が飛び交ってパニック状態になり、飛行機がバンクーバー国際空港へ舞い戻って緊急着陸、そして僕は空港で待ち構えていた警察に逮捕される、というドリフターズのコントのような光景を良太は想像してみたが、実際の「まりも」はそんなことはなく、辺りを警戒しながら機内の天井を見渡したり、シートの匂いを嗅ぎ始めたりして、やがてやれやれ、といった面持ちでキャリーケースから脱すると、本当に疲れた、といったような様子で良太の隣座席のシートの上で両手を広げてため息をついた。そしてそんな「まりも」の傍らを通り過ぎる他の乗客たちやスチュワーデスに「まりも」は睨みを利かせて、人々は驚き顔で通り過ぎたものだ。

まりも、お前は高い運賃を払って今ここに座っている。そうだ、それでいい、自由にやれ。良太は愉快な気持ちで「まりも」の体を撫でながら、まりものおかげでカナダを離れることへの感傷的な思いが随分と紛らされていることに気付き、手に絡んだ「まりも」の毛とカナダでの思い出をポケットに入れて目を閉じた。

帰国後、良太が腰掛けのつもりでアルバイトをしていたアパレルメーカーに二週間に一度営業でお店にやってくる三歳年上の香織と出逢ったのは、帰国してから何もかもが自分の思うようにいかず職を転々としていた、良太が二十四歳の時だった。香織はもはや良太の一目惚れという形で、良太の狭い心の中に火種が灯った。その火種は日毎温度と炎力を増してゆき、二週間に一度やってくる香織と白々しくクールな距離感を保って会話を交わしていたものの、その衝撃的な一目惚れの日からちょうど二ヶ月が経った後、もうどうにも気持ちを抑えきれなくなった良太は、いつものように営業でやってきた香織が店を後にする際、客が置き棄てたレシートを棄却箱から取り出した良太は、“僕の恋人になってください”という言葉と電話番号を綴って四つに折ると、あの、香織さん!と呼び止めて香織の羽織っていた赤いコートのポケットに無理やり突っ込んだ。
「あの、あ、後で読んでください」
良太はそう言って、
「え!なに?あ、はい、ありがとう、お疲れさまでした」
と香織は言って、いつも通りその長くてやわらかそうな髪とその香りを良太の元に残しながら帰っていった。
良太はその後店に戻ると、ついに言ってしまった!と胸と胃の辺りがひどく熱く火照って接客どころの騒ぎではなくなったが、その日一日どころか、香織から一切の返事が来ない二週間を、良太は羞恥と期待と、そして後悔に心を支配されることとなった。

「わたし、良太くんの変人は嫌だな」
高田馬場のイタリアントマトで香織は良太に言った。
あの告白の日から二週間後の金曜日、いつもと変わらぬ様子で良太の働くお店へとやってきた香織は、良太には一目もくれず、お店の店長と新しい商品のTシャツやら何やらを真剣に話し込んでいた。良太は正体不明の嫉妬と絶望に包まれながら、店の片隅にある服棚の整理をしていた。すると後ろからお疲れさま、という声が聞こえて、良太は驚いて振り向いてみると、そこに香織が立っていた。
「はいコレ」と香織が言って良太に何かを手渡した。それは四つに折られたレシートで、じゃあ、と香織はひとつ軽い会釈をして帰っていった。バカなことをしたな、と良太は思い、いよいよ本当にひどい絶望と後悔の気持ちに包まれた。そして良太は手にしている香織から返された四つ折りのレシートに目を落とすと、あの日自分が香織に渡したレシートとは違うものだということに気付いた。

“今夜は空いてますか? 香織 090-2634-○○○○”

思ってもみなかった香織からの返信に一瞬にして舞い上がってしまった良太は、それから退勤までの四時間が、まるで渋滞した東名高速にハマって目的地へなかなか到着出来ない時のような長い長い時間に感じながら、狭い店内の天井が、どこまでも続く晴れ渡った青い空のように思えた。

「僕の変人?」
良太は何のことか分からない、といった顔で香織に聞き返した。
香織は一週間前に良太が手渡したレシートを財布の中から大切そうに取り出してテーブルの上に置くと、恋人、と書かれた部分を指でトントンと指しながら笑った。上品な薄いピンク色に塗られたマニキュアが香織の口調とリンクして、香織のことをとても艶っぽく感じた瞬間でもあった。
「ねぇ、コレいくらなんでもひどすきじゃない?あの日良太くんからこのレシートもらって、わたし胸のドキドキが本当に収まらなくって、何が書いてあるんだろう、何が書いてあるんだろう!って、わざわざトイレの個室に入って読んだのよ、それなのにさぁ」
香織はそう言って、わざとらしく不貞腐れた顔をしながらレシートを良太の前に差し出してきたので、良太は自分で書いた、というよりも、書き殴ったそのレシートをじーっと見つめた。

”僕の変人になってください”

「うわぁ!」
良太は思わず驚愕の声を出して、座っていた椅子のきしむ音が聞こえるほどのけぞった。
「ねぇ、なにこのマンガみたいなやり方。狙ったの?」
「いやぁー…そ、そうです、狙ったんです、いや、違う!え、なんで、なにこれ、俺バカじゃん!」
良太はそう言ってテーブルに突っ伏すと、香織はそんな良太を見て声を出して笑った。
「でもすごく嬉しかった」
「すいません、なんか色々と…しかもレシートだなんて」
「ううん、これはレシートなんかじゃないよ、こんなにドキドキした手紙を貰うなんて、今までのわたしの人生で無かったことだもん。これは良太くんからわたしへの恋文だと思っていいの?」
「えっと…あの、香織さんがそう言ってくれて、俺のほうこそ夢みたいです」
「ありがとう良太くん」
「あ、いや、うん、俺のほうこそありがとう」
「すっごくハッピーな日!」
香織は背伸びをするように手を伸ばしながら言って、俺もです!と良太は言って、空っぽになっているグラスのストローをズズズ、とすすった。

それから良太と香織は一人暮らしのお互いのアパートを行き来しながら二年ほど付き合っていたが、もとから香織が猫好きだったことも手伝って、「まりも」への愛情はとても深く、例の早稲田通りのマンションで「まりも」と“三人”で暮らすようになった。「まりも」はまるで良太と香織の子どものように深く愛された。そしていつか生まれ故郷のカナダへもう一度こいつを連れていってやりたい、などと良太は香織によく話していたが、四年と三ヶ月共に暮らしたある日、どこにでもいる平凡な男女の、どこにでもある平凡な理由から良太と香織は別れることになってしまい、他の様々な事情もあって「まりも」は香織が引き取ることになり、良太は香織とも、そして「まりも」とも別れることになってしまった。そんな「まりも」が猫白血病ウイルスに侵されて、余命幾ばくも無いことを香織から聞かされたのは、良太がそのマンションを出ていってから一年と少しが経ってからのことだった。しかし良太にはその時、付き合い始めたばかりの奈緒がいた。
連絡を受けて翌日駆けつけたマンションには、まだ自分が病気であることには気付いていない「まりも」と、泣き腫らした目でベッドに腰掛けている香織がいて、久し振りに会った香織に何と言っていいか分からなかった良太は、「まりも」をそっと抱き上げると、その濡れた鼻の先に自分の鼻をくっつけた。とても愛おしく、懐かしい匂いがした。
「まりも」はすぐに喉をゴロゴロと鳴らして、時折良太の手を甘噛みしながら、小さな声で一度鳴くとそのまま目をつむってしまった。そんな「まりも」をベッドの上に降ろしてしまうと、良太はそれきり口をつぐんでしまい、そんな良太に向かって香織は、
「元気?」
と小さく微笑みながら聞いた。
うん、と良太は答えた。

ベッドの上で丸まり、顔は向こうを向いているくせに耳をピンとこちらに向けて聞き耳をたてている「まりも」の後ろ姿は、一年前よりも確実に痩せてしまっていたが、あのふてぶしい表情は変わらず健在で、体勢を変えて良太のほうを向くと、さぁ、今までどこへ行っていたのか説明してもらおうか、とでも言わんばかりに睨みを利かせてきたものの、再びひとつため息をつくと、そのやわらかい毛に覆われた手の上に顔を乗せて目をつむってしまった。部屋はしん、と静まり返り、それがよりいっそう良太の心から哀しみを増加させていた。
せめて「まりも」が生きている間だけでもまた三人で暮らしたい。それが叶わないのなら、ほんの少しでも多く、「まりも」の傍にいてあげて欲しい。良太に今、奈緒という恋人がいることを知らぬ香織は良太のほうを見ずにそう言った。香織は泣いていた。でも奈緒がいる良太には、今さら香織と「まりも」との三人の生活に戻ることなど、いくら戻りたくてもそれを叶えることは出来なかった。
ただ、それから良太は、「まりも」のために少しでも力になってやりたくて、奈緒にはそのことは内緒にしながら週に一度から二度は合鍵を使って香織のマンションへ通い、病院へ行くことを嫌がる「まりも」を車に乗せて連れていっては、輸液やインターフェロンの投与を受けてもらっていた。やる事も、獣医の言うことも、いつも同じだった。ただいつもと違うことは、レントゲンに映る「まりも」の肺を覆う影はいつまでも消えることはなく、むしろここへ来るたびに肥大しているように感じることだった。

「まりも」は猫のくせに良太に対してはとても従順で、良太を絶対的なボスだと思っていたみたいだが、なぜ良太がもうこのマンションに帰ってこなくなったのかは理解出来ていないようだった。 良太は香織のいない部屋で「まりも」とよく話をした。頭を撫でながら、お腹をさすりながら、まりもの骨ばってきたその体をさすりながら、ごめんまりも、俺は最低だ、俺はろくでなしだ、と口をつく言葉までろくでもないことになっていった。
そんな時「まりも」は、何だよ、オレは大丈夫だ、それよりもそろそろウチへ帰ってこいよ、何泣いてんだよ、とでも言っているかのように、喉と鼻を鳴らして目を閉じながら、良太の膝に頭をこすりつけてくるのだった。
そう、この頃の良太は、いつも「まりも」と二人きりになって話をするたびに、「まりも」の体に顔をうずめて子どものように泣いていた。

だがそんな生活を半年も続けたその年の夏、良太はすべてを放棄した。そこには説明出来ない葛藤や痛みが孕んではいたが、結果として良太は二度も香織を、そして「まりも」を捨てたのだ。

その後、香織の熱心な、愛情に満ちた献身的な介抱のおかげで、余命幾ばくも無いと言われた「まりも」は、ベテラン獣医の先生も驚くほどの生命力で生きながらえた。 良太は香織との共通の友人たちから伝え聞く言葉で、「まりも」が今も元気だということを聞くたびに安心しては嬉しくなったが、そのあとは決まって胸がしめつけられるほどの痛みに襲われては苦しくなった。
「まりも」は二年と少しもの闘病の末に、あの部屋で香織に看取られて死んだ。亡くなる寸前、それまで部屋の床に敷いた毛布に横になったままゼェゼェ、と苦しそうな息を立てていただけの「まりも」は、最後の力を振り絞るようにして立ち上がると、玄関までの数メートルほどの距離を少しずつ、少しずつ、よたよたと時間をかけて歩いていった後で玄関のカーペットの上で横になると、それからはもう動けなくなって乱れていた呼吸も次第に静かになってゆき、最後に一言だけ小さな声をあげて、香織に頭を撫でられながら眠るように息を引き取った。

「まりも」が亡くなった日、良太がすべてを放棄した日から一切の連絡を絶っていた香織から、何本もの電話が良太の携帯電話に入った。 良太はその電話が意味することを悟ったが、どうしても電話に出ることが出来なかった。 その時の僕は奈緒と結婚していて、まるで「まりも」と入れ替わるかのようにくるみが生まれていた。加えてその日は五月のゴールデンウィークの真っ最中で、次の日から奈緒の義母と義父との五人での日光への旅行が控えていたために、夜には奈緒の実家へ向かうために自宅を出発しなければならなかった。

“まりもの容態が急変しました。息も途切れ途切れで意識が朦朧としていて苦しそうです。 最後にもう一度だけまりも逢ってやってください。 まりものパパは良くんだけなんだよ。 猫だって分かるんだよ。どうかまりもが生きている間に、もう一度まりもを抱きしめてやってください。どうか、どうかお願いします” 香織からのメールは、その日夕方になるまで何通にも及んだ。
奈緒とくるみを連れて奈緒の実家へと向かう電車の中で、良太はどうしようもなくやりきれない哀しみを抱えながら、あのマンションへ駆け出したい気持ちを必死に抑えて香織への返信を拒否した。 でも本当のことを言えば、良太は決して拒否などしていたわけではなかった。でもそれを言ったところで何も始まらない。良太と香織の「まりも」の命の終わりがすぐそこまで来ていたのに、良太はその「まりも」のもとへ駆け出したいのか、「まりも」が死んでしまうという現実から逃げ出したいのか、そんなことすらも分からなくなっていた。
奈緒の実家の最寄り駅に着き、ロータリーに丁度停車していたバスに乗り込もうとした時、良太のジャケットに入っていた携帯電話が再び震えた。それは、その日何度となく僕の来訪を懇願していた香織からのメールに違いなかった。 良太はバスに乗り込んで座席に座った後、そのすぐ傍らでキャッキャッと騒ぐ、まだ生後半年のくるみを見やりながら窓に頭をもたげ、ジャケットのポケットからケータイを取り出して、両手でそっと開ける。

“死んじゃった…”

その香織からの一言で良太の頭の中は一瞬にして真っ白になり、傍にいたくるみの頭をクシャクシャと撫でて傍に引き寄せた。くるみはそんな良太を見て笑ったが、 良太はくるみから目をそらすようにして窓の外に目を移すと、良太の中でずっと続いていた何かが決定的に壊れてしまったような気がして、空っぽになってしまった心で窓の向こうを見やりながら、笑っているくるみの温かく小さな頭をクシャクシャと、ずっと撫で続けた。

夕方、良太と奈緒とくるみが義母父の家へ到着すると、三人の来訪を歓迎する義父と義母の
「くるみちゃーん!」 という明るい声と満面の笑顔に、ばぁば、ばぁば、とほぼ真上に手を広げて抱っこをせがむくるみをじぃじが奪い取り、くるみは抱き上げたじぃじの頭にその小さな手を張り付かせながら、その幾分禿げかけたじぃじの頭を涎だらけにした。いつの間に付けたのか、水色のエプロンを着た奈緒が義母と楽しそうにテーブルに料理を運んでくる。
「良ちゃん、ここのお刺身すごく美味しいのよ、旅行の前日だから簡素に済まそうと思ったけど、せっかく来てくれたんだもの、奮発しちゃった!さ、食べて食べて!」
義母は本当に嬉しい、と言った様子で、じぃじを前にしてキャッキャッと笑っているくるみを見やりながら良太に言った。良太の目の前のテーブルに並べられた食べ物たちは本当にどれもこれも美味しそうで、実際にどれもこれも本当に美味しかった。ただ良太は、それが美味しければ美味しいほど、この部屋が賑やかであればあるほど、義母も義父も奈緒もこの部屋に流れてる空気も、優しければ優しいほど辛くてたまらなかった。こんな時にも俺は食べ物を美味しいと感じている、こんな時にも俺はこんなふうに楽しそうに話しながら笑っている、それが本当に苦しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうだった。くるみのおかげもあって、最初から最後までそんな賑やかな時間を過ごした後で、
「あぁ本当に美味しかったー!お腹がいっぱいだぁ…ご馳走さまでした、ちょっと外へ煙草吸ってきますね」と良太は言って立ち上がる。
「夜はまだ冷えるから良ちゃんほら!」
とユニクロの上着を手渡そうとしている義母を、大丈夫です大丈夫です、と良太は遮って、リビングから離れた和室の掃き出し窓を開けて一階のベランダに出た。良太は庭を見渡しながら、三段ある階段の一番上に座りながら煙草に火をつけた。煙草なんてどうでもよかった。ただ、一人になりたかったのだ。
今頃「まりも」の亡き殻を傍に一人で哀しんでいるであろう香織のことを考えた。良太はすべてを悔いた。俺は一人で勝手に幸せになってしまった、無責任で思いやりの破片もない非情な人間だ、良太は心から打ちのめされると、そのベランダで頭をもたげ、小さく体を丸めながら泣いた。何十分経っても部屋へと戻ってこない良太を心配した奈緒が、ベランダの扉を開けて良太の様子を伺いにきて、そっと肩に手を触れた。

「良ちゃん、どうしたの?」

もう、隠すことなど出来なかった。
その肩に乗せられた奈緒の手は、信頼のすべてを乗せて良太を子供に帰した。

「まりもが死んじゃったぁ…」

良太は奈緒のほうを振り返ることも出来ず、頭をもたげたままの姿勢で、振り絞るような小さな声で奈緒にそう言ってしまうと、あとはもう、どこをどうしても止めれないほどに涙が溢れて、肩を震わせながら泣くことしか出来なかった。良太にとってそんなに激しく泣くことも、そんな姿を人に見せることも生まれて初めてのことだった。
良太は、香織の存在と香織からの連絡があってまりもの死を知ったこと、ずっと連絡があり続けていて助けを求められていたこと、今までずっとまりもの容体のことが気になって忘れられなかったこと、まりもの看病のために香織のマンションへ通い続けていたこと、思い付く限りのすべてを話した。
五月の温かい風がベランダを通り抜けて、良太の前髪をさわさわと揺らした。

「行っておいでよ。まりもちゃんの傍に行ってやりなよ」
奈緒は、心から本当にそう思って言っていることが分かるほどのやわらかい声で良太に言った。
良太は奈緒のその優しさに感謝したが、決して首を縦に振ることは出来なかった。
うん、ありがとう、大丈夫、そこまで言うのが精一杯の良太を、奈緒は黙って後ろからすっぽりと抱きしめてくれた。良太の首元で、奈緒の鼻をすする音が聞こえる。奈緒も泣いていた。
良太はその夜、奈緒にまりもの思い出話をたくさん話して聞かせた。奈緒も猫好きで、昔飼っていた猫を老衰で亡くしたことがあるので、まりものことでその猫のことを思い出したようで、その猫の思い出話も話してくれた。

「あ、まりもだ」
良太は綺麗に澄んだ夜の青い空に星を一つ見つけると、その星を「まりも」と命名した。
「きっともう名前付いてるよあの星。それに、そんなのすぐに見失っちゃうでしょ」
「いや、こんなにたくさんあるんだから大丈夫、きっと名前だって付いてないし、見失わない」
「ウソ…」
奈緒がそう言って、クスクス、と良太は笑って、奈緒も笑った。
月も無く、とても星がキレイな夜で、本当にまりもが星になったような気がした。線香を焚きたい、と言った良太に、 私もまりもちゃんにあげたい、と奈緒が言って、部屋にあるおじいちゃんの仏壇から線香を二本持ってきて、庭に線香を立てて焚いた。その紫煙がゆらゆらと空に昇ってゆく様をぼんやりと見つめながら、良太と奈緒は長いこと手を合わせた。
また涙が止まらなくなった。

「えーっと、この通りをあとは真っ直ぐ行ってくれればいいよ〜、途中でサーティーワンが見えてきたら右に曲がるんだけど、そこから先はナビしまぁす」
みどりのそんな言葉に、はいはい、と答えた良太は、早稲田通りを真っ直ぐ車を走らせた。
香織は今も、まりものいなくなった部屋に、かつて良太とまりもと三人で暮らしたあの部屋に、一人で住んでいる。懐かしい町並みが見えてきて、オレンジ色の煉瓦造りのマンションが次第に近付いてくると、あの楽しかった、まりもがいた日々のことが猛スピードで頭を巡り、良太は自分の鼓動が定まらなくなった。車がマンションの傍を通りすぎる時、良太は周りに気付かれないように息を大きく吸って息を止めると早稲田通りに面していた五階の香織の部屋に目をやった。

部屋の明かりは消えていた。

決して大げさな言い方ではなく、今も毎日のようにまりものことを思い出す。道端で見掛けた猫を見る時も、そのやわらかい体に触れる時も、その向こう側にまりもの姿が見えるのだ。香織がどうか幸せでありますように、と良太は心から願う。そしてあの時まりもは、自分が病気になることで、今にも離れてゆこうとしている良太と香織を必死に繋ぎ止めようとしていたのではないだろうか、とそんなことを考える。バカげてる、本当にバカげている。そんなことは良太も分かっている。だけれどそんなバカげたことを考えるのも、良太が香織とまりもとの日々を心から愛していたからだ。良太はまりものすべてと、あのベランダから手を振る香織の姿が大好きだった。

「カスミぃ〜、寝るなよぉ、そろそろ着くぞー」
良太はそう言ってカスミを起こすと、鼻に貼られた絆創膏を手で押さえたカスミが、目をこすりながら恨めしそうに良太を睨んだ。
これから先、良太が歳を取って、今まで付き合った女の子のことを忘れることはあっても、まりものことを忘れることはないだろう。そこに香織も同居してくるというのなら、香織も一緒に連れてゆく準備は出来ている。いや、準備なんかではない、良太はすでに香織とまりもを連れてきているのだ。遠い昔に地球から打ち上げられたボイジャー1号2号が、我々の暮らす太陽圏を飛び出した今もなお、宇宙の彼方を旅しているように、香織とまりもも同じように、良太の心の奥の部分で、今もまだ旅を続けていることに良太は気付いたのだ。
だけれど今、後部座席でスヤスヤと眠るくるみと、それを優しい眼差しで見つめている奈緒をルームミラー越しに見て、僕の愛しい日々はここでこうして息をして、ここに存在しているのだ、と良太は思った。

そう思った途端、良太は突然どうしようもない哀しみに襲われた。
あの日、レントゲンに映し出されたまりもの肺を覆う黒い影が目の前にチラついて、それはいくら振り払っても振り払っても、良太の頭から消えてゆくことはなかった。
良太は、自分の胸にもそんな黒い影があることを知っていたが、それは良太だけに見えて他人には見えない、それは一生、決してレントゲンに映ることなどない影なのだ、と思った。

門の音

  • 2018.12.13 Thursday
  • 20:25
姉との約束の時間をゆうに過ぎたというのに、三年振りに会った父の運転で、懐かしい地元の町を車で廻ってもらった。つい最近、父がこじんまりとしたアパートに引っ越した、との話を姉からの電話で知り、そんなことは父から一言も聞いていなかったし、我々家族四人が暮らしていた家に父一人で暮らすには確かにいささか広すぎるとはいえ、僕と姉に何の相談もせずに、長年住んだ愛着ある家を黙って手放すなんて信じられない!と、驚きと呆れがこんがらがって、この気持ちを何と表現しようと思ったが、父が今度引っ越したアパートで簡単な引越し祝いをするからあんたも久しぶりに顔ぐらい出しなさい!との姉の言葉に、それはもちろん行くよ、と言って、勤務先の同僚にお願いしてシフトを替わってもらい、何年か振りに生まれ育った地元の町へ帰省したのだった。


「チャラチャラしないでちゃんと働いてるのか?」

「うわー、自分のした行いは棚に上げて冒頭から小言とは!うん、それはまぁちゃんとやってるよ、自分なりにね」


父が運転する助手席から眺める故郷の町は、一見昔から何ひとつ変わっていないようにも思えたが、かつて雑木林が生い茂っていた場所にマンションの建設が始まっていたり、かつてそこにあったはずの田んぼが整地されて、何とも言いがたい同じような形をした小綺麗な建売住宅が並ぶように建っていたりして、町のところどころに確かな変化も垣間見られ、今年で六十八歳になる父の頭髪には、随分と白髪が目立つようになっていた。


「あー、、、あの口うるさい親父がやってた酒屋がコンビニになっちゃったんだー」と僕は言った。

どんどん変わってゆくよ、と父は言い、真っすぐと前を見据えてハンドルを握りながら僕に言った。


「ずっと昔、お前に父さんの車を貸してやったその日に、前輪のタイヤをパンクさせた揚げ句バンパーにでっかい傷を付けて帰ってきたことがあったろ?」

「あはは、あったあった」

「それが後々になって父さんにバレた時、お前は、あの参道の道が悪すぎたからパンクしたんだ!とか、俺のせいじゃないんだ!とか言って言い訳してたけど、どうせお前のことだから荒い運転でもしてたんだろう」

父が思い出したように僕にそう言ってきたので、 荒かったといえば確かに荒っぽかったかもしれないけど、あの当時はそれが荒いということに気付いていなかったなぁ、と僕は言った。

「ホントにお前には色々と苦労させられたからなぁ」

「確かにねぇ、、、色々とお世話になりました、なーんて」

と僕はおどけながら言うと父は笑った。

「まぁでも確かにお父さんもな、いつもあそこの参道を歩くたびに、この道はなんとかならんのかと思ったもんだよ。雨なんか降った日にはもう道がグッチャグチャでなぁ。家に着く頃にはお父さんの靴やズボンの裾なんて泥だらけになって、そんな状態で家へ帰るといつも母さんに怒られる。人が一生懸命働いて帰ってきたのにだぞ。アレにはいつも腹が立った。でもあの道な、今じゃすっかりキレイに舗装されちゃって、遊歩道まで出来たんだぞ」
と父は僕のほうをチラリと見ながら言った。

「へぇ、そこ遠回りして通っていこうよ、姉ちゃんは何とかなるよ」

僕は父を見ながらそう言うと、

「遅れたら待ってるお姉ちゃんに怒られるぞ」と言いながらも、父はそのキレイに舗装されて様変わりしたという参道へと向かって車を走らせてくれた。


久しぶりに親子三人で会うために、僕と同じように都合をつけて弟の僕がやって来ることを父の新しいアパートで待っている姉は、九年前に地方銀行で働く九歳年上の、絵に描いたように誠実そうな人と結婚し、父の住む家から二駅しか離れていない場所に住んでいる。

子供は、いない。親戚や周りの人々からは、結婚してもう九年も経つのだからいい加減子供を作ったらどうか、と耳が痛くなるほどにせっつかれ続けているらしいのだが、うるさいったらありゃしない、いざ子供が出来て産んだら産んだで、今度は二人目はいつだ、とかそんなこと聞いてくるんだからあの人たち、と前に電話で話した時に半ばふてくされた様子で話していた姉だったが、本当のことを言えばそれは作らないのではなく、姉か義兄のどちらかに原因があって、子供が出来ないのだ、ということであった。朗らかな性格でありながら、せっかちで気の短いところもある姉は、時間に関しては厳格な小学校の先生のように昔から口うるさかった。そんな姉を待たせてしまうことでつまらぬ小さないざこざを勃発させてしまうことを長い姉弟関係の中で重々承知していたが、僕は父が運転する車の助手席に深く身を埋めると、窓に流れる懐かしい景色に目をやりながら、深い追憶に浸っていた。


母が死んでから今年で十二年が経つ。お世辞にもいい母親だったとは言えないし、あまり好きな人ではなかったが、それでも母が亡くなった日の夜、僕は母の亡骸の傍からずっと離れられずにいた。冷たく、硬くなってしまった手をただただずっと握りながら、母親にとっての一生とはどんなものだったんだろう、母親にとっての幸せとは、いったいどんな形を成すものだったんだろう、そんなことばかりを考えた。けれどもいくら思考を巡らせようと、母親の幸せの定義など、例え肉親であっても僕に分かるはずもなかった。


「昔の家、見に行くか?あの辺り変わったぞ、びっくりするぞ」

と父が言ってきたので、僕はしばし考えた後で、行く、と答えた。

僕が十九で家を出て、母が亡くなった後、姉も結婚し、姉は旦那さんと父との三人で実家で暮らすことを提案し続けてきたが、それではお互いに居心地が悪いだろう、との理由から、その後は先述したように父一人で4LDKの家に住み続けていたのだが、僕と姉に何の相談もせずに、あの家、売ったぞ、と言って、新しい家の住所を教えてくれたのは、父がアパートに引っ越したとの連絡を姉から受けて、僕が何度も父のケータイに連絡をし続けたのちの二日後のことだった。


「あり得ないよ、黙って家売っ払うなんてさ」

「モテモテだったお前の部屋から出てきたいろんな女の子からの手紙な、あれ全部処分したぞ」

「からかわないでくれよ、そんなもん、別にいらないし」

「いらないのか?ホントは取ってあるぞ、何だかいやらしい本も出てきたなぁ」

「そりゃあるよ、同じ生き物としてお父ちゃんも分かるだろうよー」


小さい頃、家の裏手に広がっていた田んぼのあぜ道から森へと続く道を歩いて出勤してゆく父の姿を、二階の窓からよく眺めては手を振っていた。それは、父が仕事を終えて帰ってくる時も同じで、夕刻、または夜分に、遠くからよく響く口笛の音が聞こえた時、窓から顔を出してみると、森の道を下りながらもう一度口笛を吹いて、こちらに向かって手を振りながら帰ってくる父の姿が見えるのだった。それはいつ頃からか、これといった決まりもなく始まった儀式のようなものになり、一日の中での楽しみな時間のひとつでもあった。

父の姿が家の裏手に回って見えなくなり、僕が一、二、三・・・と三十を数え終えるころ、家の玄関から五メートルほど離れた場所にある小さな門が、カチャン、と音を立てて開ける金属音が聞こえ、父の靴の踵に打ち付けられてある金物の足音が近付いてきて玄関が開くと、家の中の空気が一瞬乱れて、窓ガラスや家具、ふすまがキシキシと微かに音を立てて鳴く。するとそれに少し遅れるようにして、ただいま、という、張りのある父の声が聞こえてくるのだった。


「お母さんな、あんな人だったけど本当はお前のことをずっと心配してたんだぞ。会いたかったんだよ、本当は。何十年もずっと一緒にいれば分かる」

父が僕にそう話しているのを、僕は黙って聞いていた。車はもう昔の家があるすぐそこまでやってきていて、昔の面影をところどころに残しつつも、こんな田舎にも都市開発の波が少しずつながらも押し寄せてきていることを、目の前の光景が黙って教えてくれていた。


「ちょっと止めて」

「どうした」

「ちょっと歩きたい」


そんな僕の言葉に、チラッと僕のほうを見た父は、今はまだ整地の手が及んでいない田んぼの脇へと車を寄せて車を停車させると、黙って車のエンジンを切った。

僕は車から降りてしばらくその場に佇み、目の前に広がる景色をぼんやりと眺めていた。僕はポケットから煙草を取り出して吸おうとしたが、父と待ち合わせをして待っている時に吸った煙草が最後の一本だったことを思い出し、煙草を吸うことを諦めた。けれどもそのおかげで、懐かしい町の匂いが体中に染み渡るようにすぅっと入り込んできて、僕をとてもやわらかな気持ちにさせてくれた。そして、僕が子供時代から思春期までのすべてを賑やかに過ごしたこの町は、いざ大人になって立ってみるとこんなにも静かな場所だったんだな、と思った。

歩いている途中で、突然ふと、僕がまだ小学生だった頃によく一緒に遊んでいた、坂内君という友達のことを思い出した。これといって特に仲がいいというわけでもなかったが、ただ近所に住んでいた、というだけの理由と、坂内君の家はちょっとしたお金持ちの家で、当時自分の部屋などは持っていなかった僕からすれば、小学生の身分で八畳もある自分の部屋を与えられていた坂内君のことを羨ましく思う気持ちと、何よりも坂内君の部屋にはトミーやらバンダイのポケットゲームがたくさんあったことから、そのゲームしたさに学校帰りによく遊びに行っていたのであった。

坂内君とは、夏の夜になるとけたたましく田んぼの中で鳴き叫ぶ蛙を静かにさせるために、そこらにある大きな石を拾っては田んぼに向かって投げ込んで蛙を鳴き止ませたり、捕まえた蛙をティッシュペーパーに包んで、ライターで火を付けて焼き殺したりして遊んだりした。 今思えば残酷とも思えるそんな行動も、幼少期を過ぎればそんな行動や発想もなくなって、いわば性衝動にも似たそんな感覚は、何せモテモテだった僕のことである。中学校に上がった頃にはやがて健全な形として異性である女の子に向けられるようになった。

そんなふうにある時期を共に時を過ごした坂内君が、スキューバダイビングの事故で死んだ、ということを人づてに聞いたのは、確か僕が二十二歳の春のことであった。

かつて自分が住んでいた実家が近くに見えてくると、坂内君への追憶はそこであっけなく途切れた。そして父が売り払ってしまった僕ら家族の実家の前に立つと、胸が不思議な高鳴りを持って動きだしたのを感じたが、それは興奮でも焦燥でもない、得体の知れないリズムであった。ここに住んでいた頃、何度も何度も幾度なく通って見慣れたはずの小さな門の脇の表札には、自分たち家族とはまったく関係の無い、知らぬ住人の名が壁に鎮座していた。けれども玄関へ行く前に開けなければならなかったあの小さな門は、あの当時のままの姿でまだそこに存在し、大人になった僕を迎えてくれていた。

ここを出てから十数年の月日が経ったのだ、と僕は思った。僕が家を出たことをきっかけとして、それから少しずつ、目に見える家族という在り方の形が変わってしまった今日までの日々を思い、僕は幼気な痛みに駆られた。その痛みは、僕をどうこうさせるほどのものではなかったにせよ、こんなにも静かな地で、あんなにまで賑やかな自分の家族がかつてここに存在していたことへの不思議な感慨に僕は静かに包まれた。

その時僕はその小さな門に手を触れて、その門をそっと開けてみた。すると、昔父が帰ってきたことを告げていたあの門の金属音が、あの頃と少しも変わりない音で、カチャン、と目の前で波紋のように広がったのだった。僕は何度も何度も同じことを繰り返してその音を聞いていた。


カチャン…カチャン…カチャン…


繰り返してその音を聞く度に、僕は深い郷愁の波に引き込まれ、そして飲み込まれた。そして突如として元気だった頃の母親の姿が蘇り、僕は母親に対して一度も心から手を振れなかったことを初めて悔いた。僕はいったい母親の何を許せなかったのだろう。許せなかったことで、僕と母親は結局何ひとつとして始めることが出来なかった。そして僕は、たったひとりの人間すらも許すことの出来ない、つまらない大人になってしまった。だらしのない母親で、幼少期から随分と悲しい思いを負わされてきたような気がしていたが、大人になってしまえばそんなものはとっくに消化出来ていて、どんなにだらしのない人間だったとしても、そんな母を父が愛して生まれてきたのが僕なのだ。そしてその僕が母親をずっと敬遠し続けていたことも、結局最後まで会えずじまいのまま母が死んでしまったことも、母を必死に愛そうとしていた父からすれば、それがどんなに悲しいことだったか。父はどうして僕と姉に黙ってこの家を売り払い、ここから離れなければならなかったのか、気のせいかも分からないけれど、何となく、少しは分かってあげられるような気がした。

僕は門から手を離してしっかりと閉じ直したあとで、しばらくの間、その門と家をじっと眺めていた。すると、さっきからの僕のそんな行為を不審に思ったのか、ここに住んでいる家族の母親らしき女が、二階の窓から怪訝な面持ちで僕のことを見つめていた。僕は気まずい思いで目をそらして静かにその場を離れると、一度も振り返ることなく、父の車が待つ場所へと踵を返した。


何もかもを変えたいと望んで家を飛び出したあの日。あれからたくさんの歳月を重ね、町も、家も、人も年をとった。あの頃、若い自分が思い描いた未来の形とは違う自分がそこにいて、頼りない自分の掌から、ただ膨大な時間だけがポロポロとこぼれ落ちていった様を心に見ながら歩いている時、目の前にあの頃と変わらぬ匂いの風がそよいで、僕は急にあの頃へと帰りたくなった。お金も無く、ロクな仕事もしていなかったが、途切れることのない夢と、まだ母親が元気だった頃の日々が、今の自分に深い愛情の感懐をもたらしたのだった。


車の中では、父が笑いながら誰かと電話をしていて、僕が車のドアを開けると、はい、お姉ちゃん、と言って、両手の人差し指を頭の上に立てながらケータイを僕に手渡した。


「ちょっとぉー!人が準備をしてお腹を空かせてあんたのこと待ってるのに、どこで何をやってるわけぇ!」

「あはは、ごめんごめん、今ちょっと実家を見にきててねぇ」と僕は答えた。

「はぁ〜?実家って…何でそんなとこにいるわけぇ?そんなの後ででいいじゃない!駅で連絡くれてから何時間経ったと思ってるのよ!こっちはあんたが十九時に来るっていうから、料理作ってずっとお父さん家で待ってるのに!今何時?もう二十時を過ぎてるじゃない!料理が冷めるー!」


そんな姉の声が受話器越しから父に聞こえていたのか、父は小指でほっぺたを掻きながら、 お姉ちゃん、声デカイなぁ、と言って笑った。気が立っている姉の気持ちを遮るように、いいじゃないかよ、別にまた温めれば!と言った後で、姉がまたガミガミと文句を言ってきたので、わかったわかった、もう向かうから、と言って電話を切った僕は、無造作にケータイを父に返すと、辺りは急に静けさを取り戻して、空では二羽の真っ黒いカラスが並んで飛びながら、カァカァ、と鳴いていた。


「もういいのか?」

「あぁ、うん」


車のエンジンの音が再び日常を取り戻す。あのあぜ道も、森へと続く道も姿を消してしまった。だけれども、今となりで車を運転している歳を取った父が、手を振りながらあのあぜ道を歩いてくる姿が、何故か頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消え、幻のように揺らめくことをやめなかった。 そして何故かいつの日かまた、あの日と同じ光景に再び出会えそうな気がした僕は、今こうして我々が普通にここに生きていることに不思議な愛おしさを感じて、それがとなりにいる父に対してなのか、これからの日々に対してなのか、それはよく分からなかったけれども、妙に清々しい気持ちが僕をやわらかく包んでいた。


「ちょっ、ちょっと止めて!」

「なんだ今度は」

「ションベンしたい!」


僕は小さい頃によくしていたように、今ではすっかり肩身の狭い思いをしてしまっている田んぼに向かってションベンをした。あの頃はチョロチョロとした短い放物線しか描けなかったションベンは、今では右へ左へと、大きな放物線を描いて、勢いよく遠くへと飛んでいた。


「ションベンビーム!わっはっはーっ!」

「早くしろ。何をやってるんだお前は」


運転席に座りながら開いた窓越しに呆れた様子で父が言ったが、僕は聞こえないふりをした。

僕の頭の中では、あの小さな門を開ける時の金属音だけが深い残響として鳴り響いていた。それはどんな音よりも厳粛な響きで、まだ家族がひとつであった頃に家族の絆を刻み奏でていた、世界でたったひとつの、小さき愛おしい音だったような気がした。

自転車ストロー

  • 2016.03.04 Friday
  • 20:10


「さ、早く帰らないとお母さんが心配するよ!」
姉のその言葉で、スーパーのジューススタンドでクリームソーダを飲んでいた少年はいそいそとソレを飲み干し、ストローだけを名残惜しそうに口にくわえながら、急ぎ足でスーパーを出ようとする姉の後を追った。夏も真っ盛りの八月、小学五年の姉と二つ違いの弟である少年は夏休みの真っ只中で、暑さに茹だりながら部屋でゴロゴロとしている様子を見た母親が、いつまでも家でゴロゴロしていないで外にでも行って来なさい、と言って、伯方の塩と胡麻油、あとはボソボソになりかけているお父さんの豚毛の歯ブラシを一本買って来てちょうだい、との使いを頼まれて、姉と少年は自転車で家から十分程の距離にあるスーパーへと買い物へ来ていたのであった。

「ねえちゃん、無線ごっこしながら帰ろうぜ!」と少年は言った。
しかし姉はそんな少年の言葉など気にとめず、そそくさとスーパーの自転車置き場へと向かうと、
「くだらないこと言ってないで、ほら、早く行くよ!」
と言って買い物袋を自転車の籠に入れると、脇目も振らずに先へと自転車を走らせた。少年はくわえていたストローを自分の自転車のハンドルについてあるベルの隙間へ無理やり挟みこみ、まだクリームソーダの甘い香りが残る口元の蛇腹の部分をククッと自分の口のほうへと曲げると、
「応答願います!応答願います!」
と無線機のマイクに見立てたそのストローの先に向かって叫びながら姉の自転車を追った。無線ごっことは、たった今少年が思いついたことで、自分と同じように姉にも自転車にストローを取り付けてもらって、応答願います!と言ったら、了解!などと応答してもらいながら自転車を走らせて欲しかったのだが、無線ごっこをするにもそもそも姉はストローをすでに捨ててしまっていたし、そんな頓知間なくだらない遊びに小学五年にもなった姉が付き合うはずもないことが、少年にはまだよく分かっていないようであった。

「待て待てーー!待つのだーー!」
先をゆく姉と少年の距離は、二トントラック三台ぶんくらい離れていて、姉は下に国鉄が走る陸橋のふもと付近へとすでに差し掛かっていたが、あの陸橋を越え終えるまでには姉の自転車を追い越してやるのだ、と少年は強く決意し、鼻息をいっそう荒くして立ち漕ぎをしながら姉の自転車を猛追した。少年は陸橋の上り坂を一気に上り切り、下り坂の中腹付近でついに姉の自転車を捕らえると、少年は前傾姿勢でストローの先に向かい、
「発見!発見!ただいま敵を捕らえました!」
と叫びながら姉の自転車の脇をすり抜け、ついには追い越したのであった。
「おーー!いえーーーーぃっ!!」
無線ごっこなのだから、敵もクソもないはずなのだが、少年はこの戦いの勝利者となり、得意気になって姉のほうを振り向いた、その時である。

立ち漕ぎをやめてサドルに座りかけた際、猛スピードで走っていた自転車のペダルから少年の足が外れて路面に足が付くと、瞬時にしてバランスを崩した少年は転倒してしまい、多くの車やトラックが行き交う車道へと自転車ごと投げ出されてしまった。あまりに一瞬の出来事に、少年はいったい自分の身に何が起こったのか分からなかったが、投げ出された少年の体と自転車は少年の意思で止められるはずもなく、陸橋の下へ下へと転がることを止めなかった。
少年のすぐ後方を走っていた青い色をしたダンプカーが、その重い体を制止しようと、すさまじくも忌々しい大きな音を立てながら急ブレーキをかけ、それは少年のすぐ足元で止まった。
「バカヤロー!」
大きな怒声が仰向けに倒れている少年の頭の上から聞こえて、トラックのドアが激しく開かれると、白い汚れたタンクトップを着た屈強な男が血相を変えながら降りてきて少年の元へと駆け寄ると、
「大丈夫かおい!」と倒れている少年の細い肩をさすった。
「うぅぅ、、うぅ、、、」
少年は路面を転がっている際に顎と肩、肘と裏太ももを強かに擦りむいて、特に半ズボンから覗く右足裏太もも辺りは広範囲に渡っての擦り傷を負っていて、霜降り肉のようになって赤い血が滲み出している擦り傷の中には細かい砂利が多数食い込んでいた。男は少年の小さな手を握りながら、「頭打ってないか、大丈夫か!」ともう一度問いかけた。
「うぅ、すいませんでしたぁー、、、」
少年はそう言って路上に座りながらペコリと男に頭を下げると、男は少年の顔と体をくまなく凝視して確かめた後に、「よし!」と言って、握ったままの少年の手を引き上げて立たせると、少年の頭をクシャクシャと激しく撫でながら、
「気をつけろよォー、こんなところでお前、、、危うく轢き殺すところだったぞ!」と言って、少年は、「うぅ、ごめんなさぁい、、、」と言って再び頭を小さく下げた。

陸橋の片側車線がそのダンプカーを先頭にして渋滞を起こし始めていて、その反対側車線では、そんな少年と男とのやり取りを、何事か、と思うような目で見ながらゆっくりと車が傍を通り過ぎていた。そしてどこの誰かかは分からないが、道路の真ん中まで放り出されてしまった少年の自転車を押して陸橋の壁にかけてくれていた。そんな最中、心配もせずに後ろで大笑いしていたその姉とは、少年であった僕の、実の姉である。まったくひどい人だと思う。

その後、白い汚れたタンクトップを着た男が運転席からヨレて古びた絆創膏を二枚持ってきて、その太い指で少年に渡すと、
「貼っとけ。でも家帰ったらちゃんと手当てしとけよォ、気をつけてなー」と言って僕の頬を軽く叩きながらニヤリと笑い、後続車の運転手に軽く頭を下げながら足早にダンプカーへと乗り込むと、荷台からバラバラと砂利をこぼしながらその重そうな体を再び手荒く動かした。やがて渋滞していた車列が正常な流れを取り戻すと、僕は壁にかけられた自転車のもとへびっこをひきながら歩いてゆき、ひしゃげて歪んでしまった前輪を、少し先にあったガードレールとガードレールとの間に挟み込みながら、必死に元に戻そうと試みたが、車輪はいつまで経ってもひしゃげたままの形で、元通りの姿には戻ってはくれなかった。

姉は本当に可笑しい、といったように笑いながらやっと僕のもとへやって来ると、
「だいじょぉーぶー!バカだなぁもう!」と言いながら、霜降り肉になった僕の裏太ももを覗き込んだ。
「うるさい!なに笑ってんだよ!」と僕は泣きそうな声で抗議した。

「なおちゃん、そんな自転車はここに置いて、おねえちゃんと二人乗りして帰ろ」
「ねえちゃんのバカタレ!」
「なんで?なんであたしがバカタレなの!」
「ねえちゃんなんて嫌いだ!この薄情者!」
「なんでー!なおちゃんが一人で勝手に無線ごっこしようなんて言って勝手に転んだんでしょー!」
「うぅ、、、!姉ちゃんなんて嫌いだ!先に帰れ!」

僕はひしゃげてしまった自転車を押しながら、家までの道のりを歩いた。先に帰ってしまっていたと思っていた姉が、陸橋から少しばかりいった曲がり角を曲がったところで待っていて、傍に来た僕の額を笑いながら突つくと、持っていたピンクのハンカチをそっと太ももの傷に当てながら、
「あーぁ、痛そ!本当にバカなんだからぁ、お家帰ったらすぐ手当てね、さ、帰るよー」と、さっきの男と同じことを言って、僕は痛い痛い、と言いながら、僕に代わって姉が押してくれている僕の自転車のひしゃげた車輪が、歪曲しながらクルクルと回り続ける様をぼんやりと見つめながら歩いた。
それがひどく天気の良い日で、あちこちに大きな入道雲が生えて空を塞いでいたことはよく覚えている。けれども無線機のマイクに見立てたストローがどこへ飛んでいってしまったのかは僕には知る由もなかったし、知る必要もなかった。

あれから何十年という月日が流れて、僕は少年から青年を飛び越えて中年になってしまったが、大人になった今も、そこがモスバーガーであろうとマックであろうと、こうしてストローを見るたびにあの時のことを思い出す。
遠く、青い日々の、まだ恋も知らぬ頃の思い出の一頁である。

ストッキング

  • 2014.09.11 Thursday
  • 22:10


おおらかでやさしく、そしてわがまま。
これが彼女の、今の時点での僕のイメージらしい。
「この三つだけは確信ある。いろいろと分析してみたの」

もう一度復唱してみよう。
おおらかでやさしく、そしてわがまま。

「そのわがままってのが引っ掛かるなぁ」
僕はビールを口にしながら彼女に尋ねる。
「わがままよ。あなたにはこれだけは絶対、というモノがあって、それに関しては人が変わったように何が何でも引かないし、絶対に譲らないの」
彼女は僕の目をじっと見つめて、時折笑みを浮かべながら言った。

「なるほど、、、でもさ、誰でも譲れないモノの一つや二つくらい持ってると思うけどな」
「うぅん、あなたの場合は少し特殊なの。例え私が今夜だけは一緒にいたいと言っても、考える間もなくそれは無理、って簡単に言う、そういうところも含めて」

彼女のバッグの中には、先ほどこの店に入る前に立ち寄ったコンビニで買ったストッキングが入っている。
僕に逢ってすぐ、手に持っていた鞄のファスナー部分で引っ掛けて伝線させてしまい、
どこかでストッキングを買いたい、とのことだったのだが、
それは同時に、その時の彼女がいつもそうであるように、
今夜はあなたと一緒にいたい、という僕に対しての彼女なりのサインでもあった。

「もうどうせ帰るだけなんだからいいじゃないかそれくらい」
「イヤ。伝線してるストッキングを平気で履いている女の人を見ると、同じ女として恥ずかしいというか、許せない気持ちになるの」

彼女は、例外を除いた世の中の殆どの女の人がそうであるように、
ほんの少しのものでも、伝線したストッキングを履き続けることを許せなかった。
僕は何となく、そんな伝線したストッキングに僕と彼女の関係を照らし合わせてみる。
伝線したストッキングに、彼女のバッグの中に入っている新しいストッキング。
何度履き続けてもなかなか伝線しないストッキングもあれば、
新調したばかりなのにすぐに伝線してしまうストッキングもある。
どちらにしても長く履き続けられるストッキングなどきっと皆無で、
ストッキングは生まれてから死ぬまで、繊細という名のもとで使命をまっとうし、
そんなストッキングにとって、伝線することはもはや宿命とも言える。

彼女は時計を見る。すでに午前0時を回っている。
「帰らなきゃ、終電なくなっちゃう」
「ごめんね、気を悪くしないでおくれよ」
「気は悪くしてないけど、なんか寂しいね、こういうの」

男は今日を見る生き物で、女は明日を見る生き物だ。
とは、昔何かの本で読んだ一文だ。
それがどういう意味を指しているのかをうまく理解することが出来れば、
僕は同じことで何度も悩むことなんてないんだろう。
でもそう、男と女のすることなんて、相手が変われどいつもだいたい同じこと。
同じことをして、同じことを求めて、同じことに悩んで、そして失敗する。

改札で彼女を抱きしめる。
このほんの何秒間で、僕と彼女のいったい何を繋ぐのだろう、と考える。
だって振り向いた時にもういなくなってるとすごく寂しいんだよ、あれ。
いつか彼女がそう口にしていたように、
いつからか本当に、改札口で見送る僕を彼女が振り向くことはなくなった。
けれども考えてみれば、僕がそこに留まろうが、すぐにその場から去ってしまおうが、
それが僕と彼女のこれからの関係の指針となるわけではないのだ。

彼女が僕のいる改札口のほうを振り向かないことを知りながら、
僕は彼女の姿が消えて見えなくなるまで、彼女の後ろ姿をぼんやりとした気持ちで見つめる。
そんな時僕はいつも、鏡に映る自分の姿はうまく取り繕うことが出来ても、
人の後ろ姿というのは何て無防備なものだろうか、と、こうして彼女を見送るたびに考える。

彼女の姿が見えなくなって、僕は踵をかえす。
深夜の薄暗い道を歩きながら、僕は彼女のバッグの中に入っているストッキングのことばかりを考えた。
丸まってクシャクシャになって、簡単に捨てられてしまうストッキングのことを考えた。
ストッキングなど、ほんの少し軽く指で引っ掛けた程度で伝線するのだ。
ほんの少しの力で、音もなく、静かに、スーッと。
まるで頼りない、我々の関係のように。

おおらかでやさしく、そしてわがまま。

狡さを多く含有する僕のわがままは、精一杯息を吸って吐き出したところで、今さら僕の体から消えてゆくことなどない。
そして彼女は、伝線したストッキングを許すことなど、きっとこれからだってないのだ。

週末列車

  • 2012.05.28 Monday
  • 19:21
 

都心から遠く離れた場所を走る、週末の午後の列車の中は、宿主を失った遊園地のように静かで、その速度は、車窓の向こうの快晴の空に浮かぶ雲の流れよりも遅いように思えた。ガランとした車内では、読書をしている人や新聞を読んでいる人、窓から射し込む午後の光の中で眠りに落ちている人、それぞれがそれぞれのひだまりの中で一時の休息時間を過ごしているように映った。そして僕もこれといって何をすることもなく、そんな人たちをただぼんやりとした頭で眺めながら、軽い眠りに落ちようとしている時であった。

ある駅で、幼い兄妹二人を連れた見た目四十半ばくらいの父親が乗車してきて、その父親と二人の幼いこどもたちは、僕の斜め前の席へと座った。やんちゃ盛りのこどもたちはしばらくの間はじっとおとなしくしていたものの、やがてじっとしていることにも飽きて窓の外へと顔を向けると、足をバタつかせ始めて、小さな腕を振り回すように父親の頭をパチンパチンと叩き始めた。その鈍くも乾いた音は、週末の閑散とした車内で奇妙に高く響いていた。父親は何かを考えているのか、そんな無邪気なこどもたちの小さな手を払い除けようともせずに、微笑ともつかぬ笑みを浮かべながら、少しうつむきがちにこどもたちの好きなようにさせていた。

そのうちに好奇心と遊び心を抑えきれなくなったのであろう小さな兄のほうが、座席から離れて車内をバタバタと走り始めると、もう一人の幼い妹もそんな兄を追うようにその後を走り始めた。そしてひとしきり賑やかに車内を走り回った後でその兄妹が父親のもとへと戻ってくると、今度は靴を履いたままの格好で座席に立ち、まるでトランポリンでもするかのように、きゃっきゃっとはしゃぎながらぴょんぴょんと激しく飛び跳ね始めた。するとさすがに読書を妨げられてしまった乗客や、眠りから覚まされた乗客から、ちぇっ、うるせぇなぁ、などという声が聞こえてきて、その兄妹やその父親を怪訝な面持ちで見つめ始めた。

僕はそんな雰囲気の中でも何も言わずにただその成り行きを黙ってうつむいているだけのその父親を不思議に思ったが、そんなふうにトランポリンごっこをしていた兄妹がちょうど僕の目の前で激しく絡み合って転んでしまったので、大丈夫?と幼い女のコのほうに声をかけて手を貸してやりながら、その小さな体をさすった。幸い兄妹共に怪我はなかったが、それでもそんな自分のこどもたちに対して心配どころか注意一つ促そうとしないその父親に対して、僕はその父親の肩を軽く叩いて、

「お父さん、注意しなきゃ」
と、自分なりの穏やかな口調で忠告したのだった。

すると父親ははっと我に返ったように顔をあげると、
「あ、すいません!今すぐ止めさせますから、す、すいませんでした」
と少し震えた声で僕に謝ったあとで、おいおまえたち、静かにしなさい、ここはおまえたちの家じゃないんだよ、と優しく諭してその幼い兄妹を傍に引き寄せながら、小さな靴の痕がまばらに残った座席シートを手で払いながら、まだらにいる乗客や僕に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。

父親は、泣いていた。
 
近くで見たその父親の瞳は、何日も寝ていないかのような充血した目をしていて、何日も剃っていないかのような不精髭が顔中をまばらに覆っていた。僕は驚いて男の顔を思わず凝視したが、そんな中、まだ遊び足りなさそうな幼い兄が父親の腕の中からするりと抜け出したと同時に、傍にいた妹の手をとって車両の一番端へと走りだし、今度はきちんと靴を脱いで座席シートに座って、兄妹揃って窓へ鼻をぴたりとくっつけるようにして流れる外の景色を静かに眺め始めた。

幼い兄妹が父親の傍から離れて一人で座っている格好になった父親は、それからすいません、と僕に言って再び床に目を落とすと、握りしめた父親の拳に涙がこぼれた。

僕は、それが余計なお世話かどうかもうまくわからないまま、どうかされたんですか?と、今にも嗚咽をこぼしそうに肩を震わせている父親に戸惑いながらも言葉を掛けた。
父親は、すいません、すいません、とずっと口にして、僕は、いやいやそんな、といったふうに掛け合っていたのだが、それからしばらくの沈黙の後、その父親はこう僕に話し始めたのだった。

「あの子たちの母親が、ついさっき病院で亡くなったんです。私自身どうしていいのか分からなくて、あの子たちにどうやって母親の死を伝えたらいいのか、頭の中が真っ白になってしまって…どうもすいませんでした」

僕は思いもしないその父親の言葉に言葉を失って、どう言葉をかけていいのか分からずに言葉を探したが、その瞬間に再び兄妹が遠くで騒ぎ始めて父親は立ち上がると、今、止めさせますから、と言ってこどもたちを制止しにゆく姿をただ黙って見ていることしか出来なかった。おい、お前たち、おとなしく座ってなさい、と注意を促し、その幾分頼りなさそうな両手で幼いこどもたちを引き寄せ、まだ自分の母親の死に気付いていないその幼い兄妹は、無邪気にはしゃぎながら父親の腕の中で暴れていた。父親は、しきりに僕に向かって頭を下げていた。

僕はその父親にかける言葉もタイミングも失って、やがて静寂を取り戻した車内で、僕の心臓の音だけが大きく鳴り響いているような気がした。そしてたまらなく心ない言葉をかけてしまったような気がして所在ない気持ちに包まれた僕は、その父親の肩を軽くさするように手を乗せたあとで、降りるつもりもなかった次の駅で下車した。ゆっくりと電車が走り去ってゆく時も、幼い兄妹を両手に抱えた父親は、プラットホームをゆっくりと歩く僕に向かって、いつまでも頭を垂れていた。

父親と幼い兄妹を乗せた電車が消えて見えなくなると、僕は一人プラットホームに残されて、どうしようもなくやりきれない思いと後悔に似た気持ちに苛まれて、傍にあったベンチに座り込んだ。例え月並みであろうと、がんばってください、と一言声を掛けるべきだったのか、元気を出してください、しっかりしてください、と僕はあの時父親を激励するべきだったのか、僕にはよく分からなかった。それはどれもこれも偽善的で薄っぺらな言葉なような気がしたし、それ以上に僕の心はあまりにも頼りなく、波に飲まれて今にも沈没しそうな小さな船のように揺れていた。けれどももしそうだとしたら言葉はなんのためにあるんだろう、思いやりとはどんな場面で自分から出てくるものなんだろう。波に飲まれて今にも沈没しそうなのはあの父親の心のほうに違いないのに、僕はひとり、その船から逃げ出して海へと飛び込んでしまったのだ。
 
僕は、そこが喫煙禁止場所であることを知りながらも、ポケットから煙草を取り出して吸いたくもない煙草を吸った。するとどこからともなく箒とちりとりを持った駅員がやってきて、お客さん、ここは禁煙ですよ、と僕に注意を促して、僕は、すいません、と謝って、そのちりとりの中に火のついた煙草を押し込みながら消したことを確認すると、今日はいい天気ですなぁ、と言って笑いながら、駅員はカランカランとちりとりの音を立てながら去っていった。僕は次の電車がやってくる時刻を調べるために立ち上がって時刻表を探してみると、次の電車がやってくるまでにはあと三十分も時間があったので、自販機で缶コーヒーを買って再びベンチに戻り、それを飲みながら目を閉じた。あの親子のこれからの行く末だけに心を巡らせていたわけではないけれど、まだ僕の心臓はドキドキと音を立てていた。

だけれども、その心臓のスピードであの親子の乗る電車に追い付くことなど出来やしない。僕たちの住む世界に溢れる後悔という物体の速さは、いつも後々になってその速度を増す。それは少し力を振り絞れば追い付けない速さではないはずなのに、いつだって追い付くことが出来ずにいて、こうして天気のよい日にただただベンチに座り込んでいるだけのような時を過ごす。あの幼い兄妹が、パチンパチンと父親の額を叩いていた鈍く乾いた音が不意に頭の中にこだまして、そんな中、この広い空と流れる雲を眺めていたら、今傍にあるあらゆるものが泣きたくなるような愛おしさに包まれて、僕は携帯電話を取り出して恋人に電話をした。

「どうしたの?」
「いや、ちょっと声を聞きたくなったんだよ」

僕は周りにさきほどの駅員がいないことを確認すると、再び煙草を取り出して、それを吸いながら次の電車を待っていた。

あの父親の涙の残像を追うように、彼らの後ろを走る電車を待っていた。

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