良太と奈緒が、まだ二歳になって間もないくるみを車に乗せて、良太の学生時代から仲良くしている後輩カップルの結婚パーティーへと招待されたのは、年の瀬も近付いた十二月の師走中頃のことであった。
その日、同じようにその結婚パーティーへ招待されていた友人のみどりと愛娘である三歳のカスミが、パーティーが始まって間もない頃、テーブルの上に置いてあったフォークを握りしめたまま足のつかぬ椅子から降りようとした際に誤って前のめりに転んでしまい、手にしていたフォークの先が鼻の穴に突き刺さるという事故が起きた。それは本当に一瞬の出来事で、フォークの先の四本のうちの三本が鼻の穴から外へと向けて貫通してしまうという事故だった。
自分の身に何か大変なことが起きたことを察したカスミは、その小さな体を震わせながら泣き、みどりは、大変!と言って血相を変え急いでカスミを抱きかかえると、小走りでパーティー会場の外へ出ていった。
良太と奈緒も目の前で起きた突然の出来事に正直心が慌ててしまったのだが、あまり大げさにならないように静かに二人を追うと、会場入口を出てすぐの廊下で、どうしよう、どうしよう、とカスミの頭を撫でながら必死に介抱しているみどりがいた。奈緒はそんなみどりの背中を優しくさすってやり、良太は泣き叫び続けるカスミに、大丈夫か、傷見せてごらん、と言ってカスミの顔を覗き込んだ。
「大丈夫かな、大丈夫かな、酷いことになってないかな、痕残っちゃうかな、大丈夫かな」
みどりは激しく動揺した様子でしゃがみこんでしまって、良太がその場から少し離れて119番しようと携帯電話を取り出した時、すぐに駆けつけてきたホテルの支配人に自分が今怪我をした女の子の母親の友人であることを述べたあとで状況を簡潔に説明し、我々はその場で救急車の到着を待った。
しばらくしてすぐに救急車が到着し、二人の救急隊員に促されたみどりがカスミを抱きかかえて救急車に乗り込むと、パーティー会場に残されたままの荷物を取りに戻っていた奈緒が戻ってきて、見送る良太と奈緒に向かって、こんな時にごめんね、ごめんね、と手を合わせながらみどりは言った。
ホテルのロータリーエントランスにバウンスしてより大きさを増した救急車のサイレンが鳴って救急車がホテルを出発すると、良太と奈緒はみどりとカスミを乗せた救急車をずっと目で追い続けた。そして救急車が遠くの交差点を曲がってその姿が見えなくなると、良太と奈緒は同時にふぅ、と一息大きな息を吐いて、顔を見合わせて少し笑った後で、大丈夫かな、とお互いに言いながらパーティー会場へと戻った。会場では同じ円卓に同席していた何人かの人たちに、何かあったんですか?と尋ねられたこと以外、つい先ほど起きたカスミのフォーク騒動に気付いた人はいないようで、そこにはただ、平和で、祝福に満ちた雰囲気が温かく漂っているだけだった。良太と奈緒はその祝福ムードに水を差すようなマネなどしたくなかったので、そのような事故が起きたことは後輩カップルには伏せたまま談笑し、パーティーの間中、シングルマザーですべての日常と愛情をカスミに注いでいるみどりの気持ちとカスミの容態に気を揉みながら、どこか不謹慎な気持ちに包まれながらも、良太は余興として頼まれていた歌を少し大げさにはしゃぎながら歌った。
余興が終わると、まるでその時を遠くから見計らっていたかのように先ほどの支配人が良太のところへとやってきて、怪我をしたご友人のお子様ですが、順天堂病院へ運ばれました、と教えてくれて、病院の電話番号が書かれてあるメモを良太に渡してくれた。
カスミが救急車で運ばれてからパーティー終了までにすでに二時間は経っていた。でもパーティー会場から順天堂病院までは大した距離ではなかったので、支配人からその旨を伝え聞いた時から順天堂病院までみどりとカスミを迎えに行ってやるつもりでいた良太だったが、無事ならばとっくに病院を出ているかもしれない、とも考えた。けれども病院へ行って、二人がいないならいないでそれでいい、と考えた良太は、パーティーが終わって後輩カップルに挨拶を交わした後で、救急車に乗り込んだ際に見せたみどりの不安そうな表情を思い浮かべながら、奈緒とくるみを車に乗せてそのまま一路順天堂病院へと向かったのだった。
病院へ到着して急患の窓口の前に立った良太が窓口の向こうに座る年増の女に事情を話すと、ついたった先ほど手当てを終えたばかりで、幸いにも女の子は大事には至らなかった、という話を聞き、あぁよかった、と胸を撫で下ろした良太と奈緒は、病院の正面入り口でみどりとカスミを迎え入れると、みどりはひどく感謝した様子で、ありがとう、ありがとう、と繰り返して口にした。
気にしない気にしない、と良太は言って、いつまでも恐縮して遠慮しているみどりを無理やり後部座席へと誘うと、よく頑張ったね、と言いながら奈緒はしゃがんでカスミの真っ赤な頬っぺたを覆ってやり、よーし、出発!と良太は言って西へと車を走らせたのだった。
クリスマスがすぐそこまで近づいている街のあちこちでは、派手なディスプレイで彩られた店やツリーの数々がまるで競い合うかのように多く立ち並んでいた。しかし運転する良太からルームミラー越しに映るカスミはそんな窓の向こうの景色にはまるで興味がないようで、絆創膏で固められた小さな鼻をその小さな手で押さえながら、その小さな両足をちょこんとこちらに向けて大きなあくびをしている。
「鼻に三つも穴空けて、鼻の通りがよくなっただろうカスミぃ〜!」
「ちょっとぉ!何でもかんでもネタにして笑いにしたがるんだからぁ!」
良太の冷やかしの言葉にそうふて腐れて抗議するみどりの言葉には、娘が無事であったことを安堵に思う母親の愛情が微笑ましいほどに溢れていて、その響きは良太をひどく楽しい気持ちにさせた。そんなみどりとカスミ、奈緒とくるみを乗せた賑やかな車がのんびりと目白通りを走っていると、
「あっ、この次の交差点を左にお願い。えーっと、早稲田通りね」
みどりは運転席と助手席の間に身を乗り出すようにして良太に言った。
早稲田通り…
この通りには、かつて良太が交際していた香織と四年と三ヶ月同棲していたマンションが建っている。
展望がいいことと、ベランダというよりもテラスと呼んだほうが相応しい広いスペースのベランダがあったことから、それが決め手となってその場で借りることを即決したその部屋からは、早稲田通りを広く見下ろすことの出来る環境にあり、加えて部屋が最上階であったことから屋上へも上ることが出来たため、噂のテラスもどき見たさに友人たちがよく訪れては、季節を問わずBBQパーティーをよくしたものだった。
普段の日、良太が毎朝アルバイトへ出掛ける際には、香織は決まってベランダに出てきては、早稲田通りを駅へと向かって歩く良太に向かって、ベランダの広さを余すことなく使うかのように大きく手を振っていた。
あれからもう五年も経ったのだ。
いや、まだたったの五年しか経っていないのだ。
良太には、良太がカナダに留学していた二十歳の頃から飼っていた「まりも」という名前の雑種の雄猫がいた。白と黒のブチ猫で、まだ「まりも」が生後三ヶ月の時にカナダでの日本人の友人から、ウチの猫がめんこい仔猫を五匹生んで、今里親を探しているんだけど、お前猫好きだったよな、見に来ないか、と言われて、あくる日の晴れた日曜日の午後に軽い気持ちでその友人の家へ遊びに行った良太だったが、他の仔猫たちには目もくれず、一目見て「まりも」を気に入ってしまった良太は、その日着ていたデニムのオーバーオールの胸元に収めて、友人の家を後にした。普段はなかなか時刻表通りにやって来ないバスに苛立っていた良太も、その日だけは胸の中でミャアミャアと鳴いている「まりも」に魅入られて、やって来たバスを二本乗り過ごすほど、もうすでに「まりも」に夢中になっていた。
「小さいなぁ、、、なんてやわらかくて丸くてかわいいんだ」
良太はそう「まりも」に話し掛けて、その時に良太の頭の中に浮かんできたのが、あの、フワフワとしたまんまるいまりもだった。今思えば何て身勝手で無責任な飼主だったんだ、と良太は反省しているが、動物として、そして留守ばかりさせてしまう「まりも」には、せめて食べることだけは不自由させたくないという思いから、「まりも」が少しでも餌を欲しがるような素振りを見せようものなら一日に何度も猫缶を与えていたせいで、一時は十三キロまで体重が増えてしまい、転がったほうが速く歩けるのではないか、と思うほど、本当にまりものような丸い体型になり、お腹の肉を床にこすりつけながらノッシノッシと歩くふてぶてしい猫になってしまった。
「なーんか俺が未来に想像していた姿とはまるで違うぞおまえ!」
良太はよく「まりも」にそう言って、肉の付きすぎた「まりも」のお腹を両手で掴んで揺らしては「まりも」に怒られたものだ。
良太が留学期間を終えてカナダから日本へと帰国する際、動物は機内に持ち込めない、と友人たちから聞かされていて「まりも」をどうやって日本へ連れて帰ろう、と思案と不安の日々だったが、いざ航空会社へと出向いて相談してみると、呆気に取られるほど呆気なくチケットの手配をしてくれて、良太は航空会社のカウンターの女の子が「OHHH!!!」と胸を押さえて驚くほどの歓喜の声を出した。
その時の良太の声を文字に起こして表すとしたら、きっとこんな感じだろう。
「∽♂%≧$△?℃ーーーー!!」
まぁ簡単に言ってしまえば、言語として存在するかしないかくらいの、?ぉ''ぉ''ぉぉぉおーー!みたいな歓喜の声である。
そりゃ文字化けもする。
しかしあろうことか、いくら「まりも」が猫界の中ではヘビー級、人間の相撲界で分かりやすく例えれば、平成の名大関、小錦関のようなちょっと太り過ぎな体躯だからといって、人間のそれと比べたらサイズも重量もはるかに小さいはずなのに、しっかり大人の人間一人ぶんの飛行運賃を支払わされてひどく驚いたものだが、やっぱり「まりも」を機内に持ち込めて共に帰国出来る喜びと安堵の気持ちに胸を撫で下ろした良太は、カウンターの女の子だけに留まらず、そこにいた航空会社の人たちにサンキュー!サンキュー!と感謝の言葉を述べて、勝利者の勇者のような気持ちで航空会社を後にしたのだった。
バンクーバー国際空港を離陸する前からベルトサインが消えるまでの間、良太はペットキャリーバックの隙間から「まりも」のやわからな手を握りながら声をかけ続けた。
「まりも、俺の故郷へ連れて帰るぞ、しばらくの我慢だ、がんばれ」
手を前に揃え、上目遣いで良太を見て、始めは堪忍したような様子を見せていた「まりも」だったが、しばらくするとすぐにキャリーバッグの中でソワソワと落ち着かなくなり、どこから声を出したらそんな声が出るのか、と思うくらいの低い声で鳴き始めた。
「まりもー、ごめんな、大丈夫だから」
それも当たり前だろう、「まりも」のいるネコの世界からしてみれば、猫が空を飛ぶなんてことは想定外のことだろうし、良太にしてみても、キャリーバックに入ったままこれから十時間以上もの時間を過ごさなければならない「まりも」のことを考えると不安な気持ちは隠せなかった。
耳がツンとする。「まりも」は耳を下に向けて固まったまま、時折良太をじーっと見つめたり、狭いキャリーバックの中で頭上を見上げながら立ち上がろうとしている。握っている「まりも」の肉球が汗をかいて湿ってきた。猫も人間と同じように気圧の変化の影響を受けて耳がツンとしたりするものなのだろうか、と良太は考えた。「まりも」の汗ばんだ手を握りながら、良太は窓の下の景色に目を向ける。宝石箱をひっくり返したような夜景という形容は確かにその通りだ。だからといっていつまでも窓の外を眺め続けることなんて出来るわけもない。猫は座席に備え付けられてあるイヤホンで音楽も聴かなければ機内映画も観ないし、ましてや読書なんてするわけもない。人間だって退屈極まりないこの世界で、これから十時間以上も「まりも」は過ごさなければならないのだ。考えてみたらトイレはどうするのだ!ペートシーツはある、だが匂い対策はしていない!良太は再び驚愕して「まりも」を見やると、「まりも」は良太を冷たく一瞥して、再び低い声でウワォォン、と鳴いた。
その「まりも」の鳴き声がまるで合図のように機内のベルトサインが消えると、静かだった機内がベルトを外す金具音や座席の擦れる音で包むように支配し、人々は立ち上がって息を吹き返す。トイレに行く人、頭上の棚からスーツケースを取り出す人、スチュワーデス(当時はまだ客室乗務員との呼称は付いていなかった)が飲み物カートに飲み物をセットする音、とにかく飛行機の中で聴く音は、どれもこれも日常の中で聴いている音とは異なるように良太は感じた。たぶん、飛行機のジェットエンジンの音がベースとして流れているからなのかな、なとど他愛もないことに思考を巡らせながら良太が「まりも」に再び目を移すと、「まりも」がまるで犬のように舌を出してはぁはぁ、と息をしている。
「あぁ、まりもー、もう大丈夫だ、安心しろ、これからお前は自由時間だ」
良太はそう言うとキャリーバックのチャックを全開にすると、「まりも」の目の前には新しい世界が広がった。「まりも」がキャリーバッグの中から勢いよく逃げ出して機内を走り回り、乗客の悲鳴が飛び交ってパニック状態になり、飛行機がバンクーバー国際空港へ舞い戻って緊急着陸、そして僕は空港で待ち構えていた警察に逮捕される、というドリフターズのコントのような光景を良太は想像してみたが、実際の「まりも」はそんなことはなく、辺りを警戒しながら機内の天井を見渡したり、シートの匂いを嗅ぎ始めたりして、やがてやれやれ、といった面持ちでキャリーケースから脱すると、本当に疲れた、といったような様子で良太の隣座席のシートの上で両手を広げてため息をついた。そしてそんな「まりも」の傍らを通り過ぎる他の乗客たちやスチュワーデスに「まりも」は睨みを利かせて、人々は驚き顔で通り過ぎたものだ。
まりも、お前は高い運賃を払って今ここに座っている。そうだ、それでいい、自由にやれ。良太は愉快な気持ちで「まりも」の体を撫でながら、まりものおかげでカナダを離れることへの感傷的な思いが随分と紛らされていることに気付き、手に絡んだ「まりも」の毛とカナダでの思い出をポケットに入れて目を閉じた。
帰国後、良太が腰掛けのつもりでアルバイトをしていたアパレルメーカーに二週間に一度営業でお店にやってくる三歳年上の香織と出逢ったのは、帰国してから何もかもが自分の思うようにいかず職を転々としていた、良太が二十四歳の時だった。香織はもはや良太の一目惚れという形で、良太の狭い心の中に火種が灯った。その火種は日毎温度と炎力を増してゆき、二週間に一度やってくる香織と白々しくクールな距離感を保って会話を交わしていたものの、その衝撃的な一目惚れの日からちょうど二ヶ月が経った後、もうどうにも気持ちを抑えきれなくなった良太は、いつものように営業でやってきた香織が店を後にする際、客が置き棄てたレシートを棄却箱から取り出した良太は、“僕の恋人になってください”という言葉と電話番号を綴って四つに折ると、あの、香織さん!と呼び止めて香織の羽織っていた赤いコートのポケットに無理やり突っ込んだ。
「あの、あ、後で読んでください」
良太はそう言って、
「え!なに?あ、はい、ありがとう、お疲れさまでした」
と香織は言って、いつも通りその長くてやわらかそうな髪とその香りを良太の元に残しながら帰っていった。
良太はその後店に戻ると、ついに言ってしまった!と胸と胃の辺りがひどく熱く火照って接客どころの騒ぎではなくなったが、その日一日どころか、香織から一切の返事が来ない二週間を、良太は羞恥と期待と、そして後悔に心を支配されることとなった。
「わたし、良太くんの変人は嫌だな」
高田馬場のイタリアントマトで香織は良太に言った。
あの告白の日から二週間後の金曜日、いつもと変わらぬ様子で良太の働くお店へとやってきた香織は、良太には一目もくれず、お店の店長と新しい商品のTシャツやら何やらを真剣に話し込んでいた。良太は正体不明の嫉妬と絶望に包まれながら、店の片隅にある服棚の整理をしていた。すると後ろからお疲れさま、という声が聞こえて、良太は驚いて振り向いてみると、そこに香織が立っていた。
「はいコレ」と香織が言って良太に何かを手渡した。それは四つに折られたレシートで、じゃあ、と香織はひとつ軽い会釈をして帰っていった。バカなことをしたな、と良太は思い、いよいよ本当にひどい絶望と後悔の気持ちに包まれた。そして良太は手にしている香織から返された四つ折りのレシートに目を落とすと、あの日自分が香織に渡したレシートとは違うものだということに気付いた。
“今夜は空いてますか? 香織 090-2634-○○○○”
思ってもみなかった香織からの返信に一瞬にして舞い上がってしまった良太は、それから退勤までの四時間が、まるで渋滞した東名高速にハマって目的地へなかなか到着出来ない時のような長い長い時間に感じながら、狭い店内の天井が、どこまでも続く晴れ渡った青い空のように思えた。
「僕の変人?」
良太は何のことか分からない、といった顔で香織に聞き返した。
香織は一週間前に良太が手渡したレシートを財布の中から大切そうに取り出してテーブルの上に置くと、恋人、と書かれた部分を指でトントンと指しながら笑った。上品な薄いピンク色に塗られたマニキュアが香織の口調とリンクして、香織のことをとても艶っぽく感じた瞬間でもあった。
「ねぇ、コレいくらなんでもひどすきじゃない?あの日良太くんからこのレシートもらって、わたし胸のドキドキが本当に収まらなくって、何が書いてあるんだろう、何が書いてあるんだろう!って、わざわざトイレの個室に入って読んだのよ、それなのにさぁ」
香織はそう言って、わざとらしく不貞腐れた顔をしながらレシートを良太の前に差し出してきたので、良太は自分で書いた、というよりも、書き殴ったそのレシートをじーっと見つめた。
”僕の変人になってください”
「うわぁ!」
良太は思わず驚愕の声を出して、座っていた椅子のきしむ音が聞こえるほどのけぞった。
「ねぇ、なにこのマンガみたいなやり方。狙ったの?」
「いやぁー…そ、そうです、狙ったんです、いや、違う!え、なんで、なにこれ、俺バカじゃん!」
良太はそう言ってテーブルに突っ伏すと、香織はそんな良太を見て声を出して笑った。
「でもすごく嬉しかった」
「すいません、なんか色々と…しかもレシートだなんて」
「ううん、これはレシートなんかじゃないよ、こんなにドキドキした手紙を貰うなんて、今までのわたしの人生で無かったことだもん。これは良太くんからわたしへの恋文だと思っていいの?」
「えっと…あの、香織さんがそう言ってくれて、俺のほうこそ夢みたいです」
「ありがとう良太くん」
「あ、いや、うん、俺のほうこそありがとう」
「すっごくハッピーな日!」
香織は背伸びをするように手を伸ばしながら言って、俺もです!と良太は言って、空っぽになっているグラスのストローをズズズ、とすすった。
それから良太と香織は一人暮らしのお互いのアパートを行き来しながら二年ほど付き合っていたが、もとから香織が猫好きだったことも手伝って、「まりも」への愛情はとても深く、例の早稲田通りのマンションで「まりも」と“三人”で暮らすようになった。「まりも」はまるで良太と香織の子どものように深く愛された。そしていつか生まれ故郷のカナダへもう一度こいつを連れていってやりたい、などと良太は香織によく話していたが、四年と三ヶ月共に暮らしたある日、どこにでもいる平凡な男女の、どこにでもある平凡な理由から良太と香織は別れることになってしまい、他の様々な事情もあって「まりも」は香織が引き取ることになり、良太は香織とも、そして「まりも」とも別れることになってしまった。そんな「まりも」が猫白血病ウイルスに侵されて、余命幾ばくも無いことを香織から聞かされたのは、良太がそのマンションを出ていってから一年と少しが経ってからのことだった。しかし良太にはその時、付き合い始めたばかりの奈緒がいた。
連絡を受けて翌日駆けつけたマンションには、まだ自分が病気であることには気付いていない「まりも」と、泣き腫らした目でベッドに腰掛けている香織がいて、久し振りに会った香織に何と言っていいか分からなかった良太は、「まりも」をそっと抱き上げると、その濡れた鼻の先に自分の鼻をくっつけた。とても愛おしく、懐かしい匂いがした。
「まりも」はすぐに喉をゴロゴロと鳴らして、時折良太の手を甘噛みしながら、小さな声で一度鳴くとそのまま目をつむってしまった。そんな「まりも」をベッドの上に降ろしてしまうと、良太はそれきり口をつぐんでしまい、そんな良太に向かって香織は、
「元気?」
と小さく微笑みながら聞いた。
うん、と良太は答えた。
ベッドの上で丸まり、顔は向こうを向いているくせに耳をピンとこちらに向けて聞き耳をたてている「まりも」の後ろ姿は、一年前よりも確実に痩せてしまっていたが、あのふてぶしい表情は変わらず健在で、体勢を変えて良太のほうを向くと、さぁ、今までどこへ行っていたのか説明してもらおうか、とでも言わんばかりに睨みを利かせてきたものの、再びひとつため息をつくと、そのやわらかい毛に覆われた手の上に顔を乗せて目をつむってしまった。部屋はしん、と静まり返り、それがよりいっそう良太の心から哀しみを増加させていた。
せめて「まりも」が生きている間だけでもまた三人で暮らしたい。それが叶わないのなら、ほんの少しでも多く、「まりも」の傍にいてあげて欲しい。良太に今、奈緒という恋人がいることを知らぬ香織は良太のほうを見ずにそう言った。香織は泣いていた。でも奈緒がいる良太には、今さら香織と「まりも」との三人の生活に戻ることなど、いくら戻りたくてもそれを叶えることは出来なかった。
ただ、それから良太は、「まりも」のために少しでも力になってやりたくて、奈緒にはそのことは内緒にしながら週に一度から二度は合鍵を使って香織のマンションへ通い、病院へ行くことを嫌がる「まりも」を車に乗せて連れていっては、輸液やインターフェロンの投与を受けてもらっていた。やる事も、獣医の言うことも、いつも同じだった。ただいつもと違うことは、レントゲンに映る「まりも」の肺を覆う影はいつまでも消えることはなく、むしろここへ来るたびに肥大しているように感じることだった。
「まりも」は猫のくせに良太に対してはとても従順で、良太を絶対的なボスだと思っていたみたいだが、なぜ良太がもうこのマンションに帰ってこなくなったのかは理解出来ていないようだった。
良太は香織のいない部屋で「まりも」とよく話をした。頭を撫でながら、お腹をさすりながら、まりもの骨ばってきたその体をさすりながら、ごめんまりも、俺は最低だ、俺はろくでなしだ、と口をつく言葉までろくでもないことになっていった。
そんな時「まりも」は、何だよ、オレは大丈夫だ、それよりもそろそろウチへ帰ってこいよ、何泣いてんだよ、とでも言っているかのように、喉と鼻を鳴らして目を閉じながら、良太の膝に頭をこすりつけてくるのだった。
そう、この頃の良太は、いつも「まりも」と二人きりになって話をするたびに、「まりも」の体に顔をうずめて子どものように泣いていた。
だがそんな生活を半年も続けたその年の夏、良太はすべてを放棄した。そこには説明出来ない葛藤や痛みが孕んではいたが、結果として良太は二度も香織を、そして「まりも」を捨てたのだ。
その後、香織の熱心な、愛情に満ちた献身的な介抱のおかげで、余命幾ばくも無いと言われた「まりも」は、ベテラン獣医の先生も驚くほどの生命力で生きながらえた。 良太は香織との共通の友人たちから伝え聞く言葉で、「まりも」が今も元気だということを聞くたびに安心しては嬉しくなったが、そのあとは決まって胸がしめつけられるほどの痛みに襲われては苦しくなった。
「まりも」は二年と少しもの闘病の末に、あの部屋で香織に看取られて死んだ。亡くなる寸前、それまで部屋の床に敷いた毛布に横になったままゼェゼェ、と苦しそうな息を立てていただけの「まりも」は、最後の力を振り絞るようにして立ち上がると、玄関までの数メートルほどの距離を少しずつ、少しずつ、よたよたと時間をかけて歩いていった後で玄関のカーペットの上で横になると、それからはもう動けなくなって乱れていた呼吸も次第に静かになってゆき、最後に一言だけ小さな声をあげて、香織に頭を撫でられながら眠るように息を引き取った。
「まりも」が亡くなった日、良太がすべてを放棄した日から一切の連絡を絶っていた香織から、何本もの電話が良太の携帯電話に入った。 良太はその電話が意味することを悟ったが、どうしても電話に出ることが出来なかった。 その時の僕は奈緒と結婚していて、まるで「まりも」と入れ替わるかのようにくるみが生まれていた。加えてその日は五月のゴールデンウィークの真っ最中で、次の日から奈緒の義母と義父との五人での日光への旅行が控えていたために、夜には奈緒の実家へ向かうために自宅を出発しなければならなかった。
“まりもの容態が急変しました。息も途切れ途切れで意識が朦朧としていて苦しそうです。 最後にもう一度だけまりも逢ってやってください。 まりものパパは良くんだけなんだよ。 猫だって分かるんだよ。どうかまりもが生きている間に、もう一度まりもを抱きしめてやってください。どうか、どうかお願いします”
香織からのメールは、その日夕方になるまで何通にも及んだ。
奈緒とくるみを連れて奈緒の実家へと向かう電車の中で、良太はどうしようもなくやりきれない哀しみを抱えながら、あのマンションへ駆け出したい気持ちを必死に抑えて香織への返信を拒否した。
でも本当のことを言えば、良太は決して拒否などしていたわけではなかった。でもそれを言ったところで何も始まらない。良太と香織の「まりも」の命の終わりがすぐそこまで来ていたのに、良太はその「まりも」のもとへ駆け出したいのか、「まりも」が死んでしまうという現実から逃げ出したいのか、そんなことすらも分からなくなっていた。
奈緒の実家の最寄り駅に着き、ロータリーに丁度停車していたバスに乗り込もうとした時、良太のジャケットに入っていた携帯電話が再び震えた。それは、その日何度となく僕の来訪を懇願していた香織からのメールに違いなかった。 良太はバスに乗り込んで座席に座った後、そのすぐ傍らでキャッキャッと騒ぐ、まだ生後半年のくるみを見やりながら窓に頭をもたげ、ジャケットのポケットからケータイを取り出して、両手でそっと開ける。
“死んじゃった…”
その香織からの一言で良太の頭の中は一瞬にして真っ白になり、傍にいたくるみの頭をクシャクシャと撫でて傍に引き寄せた。くるみはそんな良太を見て笑ったが、 良太はくるみから目をそらすようにして窓の外に目を移すと、良太の中でずっと続いていた何かが決定的に壊れてしまったような気がして、空っぽになってしまった心で窓の向こうを見やりながら、笑っているくるみの温かく小さな頭をクシャクシャと、ずっと撫で続けた。
夕方、良太と奈緒とくるみが義母父の家へ到着すると、三人の来訪を歓迎する義父と義母の
「くるみちゃーん!」
という明るい声と満面の笑顔に、ばぁば、ばぁば、とほぼ真上に手を広げて抱っこをせがむくるみをじぃじが奪い取り、くるみは抱き上げたじぃじの頭にその小さな手を張り付かせながら、その幾分禿げかけたじぃじの頭を涎だらけにした。いつの間に付けたのか、水色のエプロンを着た奈緒が義母と楽しそうにテーブルに料理を運んでくる。
「良ちゃん、ここのお刺身すごく美味しいのよ、旅行の前日だから簡素に済まそうと思ったけど、せっかく来てくれたんだもの、奮発しちゃった!さ、食べて食べて!」
義母は本当に嬉しい、と言った様子で、じぃじを前にしてキャッキャッと笑っているくるみを見やりながら良太に言った。良太の目の前のテーブルに並べられた食べ物たちは本当にどれもこれも美味しそうで、実際にどれもこれも本当に美味しかった。ただ良太は、それが美味しければ美味しいほど、この部屋が賑やかであればあるほど、義母も義父も奈緒もこの部屋に流れてる空気も、優しければ優しいほど辛くてたまらなかった。こんな時にも俺は食べ物を美味しいと感じている、こんな時にも俺はこんなふうに楽しそうに話しながら笑っている、それが本当に苦しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうだった。くるみのおかげもあって、最初から最後までそんな賑やかな時間を過ごした後で、
「あぁ本当に美味しかったー!お腹がいっぱいだぁ…ご馳走さまでした、ちょっと外へ煙草吸ってきますね」と良太は言って立ち上がる。
「夜はまだ冷えるから良ちゃんほら!」
とユニクロの上着を手渡そうとしている義母を、大丈夫です大丈夫です、と良太は遮って、リビングから離れた和室の掃き出し窓を開けて一階のベランダに出た。良太は庭を見渡しながら、三段ある階段の一番上に座りながら煙草に火をつけた。煙草なんてどうでもよかった。ただ、一人になりたかったのだ。
今頃「まりも」の亡き殻を傍に一人で哀しんでいるであろう香織のことを考えた。良太はすべてを悔いた。俺は一人で勝手に幸せになってしまった、無責任で思いやりの破片もない非情な人間だ、良太は心から打ちのめされると、そのベランダで頭をもたげ、小さく体を丸めながら泣いた。何十分経っても部屋へと戻ってこない良太を心配した奈緒が、ベランダの扉を開けて良太の様子を伺いにきて、そっと肩に手を触れた。
「良ちゃん、どうしたの?」
もう、隠すことなど出来なかった。
その肩に乗せられた奈緒の手は、信頼のすべてを乗せて良太を子供に帰した。
「まりもが死んじゃったぁ…」
良太は奈緒のほうを振り返ることも出来ず、頭をもたげたままの姿勢で、振り絞るような小さな声で奈緒にそう言ってしまうと、あとはもう、どこをどうしても止めれないほどに涙が溢れて、肩を震わせながら泣くことしか出来なかった。良太にとってそんなに激しく泣くことも、そんな姿を人に見せることも生まれて初めてのことだった。
良太は、香織の存在と香織からの連絡があってまりもの死を知ったこと、ずっと連絡があり続けていて助けを求められていたこと、今までずっとまりもの容体のことが気になって忘れられなかったこと、まりもの看病のために香織のマンションへ通い続けていたこと、思い付く限りのすべてを話した。
五月の温かい風がベランダを通り抜けて、良太の前髪をさわさわと揺らした。
「行っておいでよ。まりもちゃんの傍に行ってやりなよ」
奈緒は、心から本当にそう思って言っていることが分かるほどのやわらかい声で良太に言った。
良太は奈緒のその優しさに感謝したが、決して首を縦に振ることは出来なかった。
うん、ありがとう、大丈夫、そこまで言うのが精一杯の良太を、奈緒は黙って後ろからすっぽりと抱きしめてくれた。良太の首元で、奈緒の鼻をすする音が聞こえる。奈緒も泣いていた。
良太はその夜、奈緒にまりもの思い出話をたくさん話して聞かせた。奈緒も猫好きで、昔飼っていた猫を老衰で亡くしたことがあるので、まりものことでその猫のことを思い出したようで、その猫の思い出話も話してくれた。
「あ、まりもだ」
良太は綺麗に澄んだ夜の青い空に星を一つ見つけると、その星を「まりも」と命名した。
「きっともう名前付いてるよあの星。それに、そんなのすぐに見失っちゃうでしょ」
「いや、こんなにたくさんあるんだから大丈夫、きっと名前だって付いてないし、見失わない」
「ウソ…」
奈緒がそう言って、クスクス、と良太は笑って、奈緒も笑った。
月も無く、とても星がキレイな夜で、本当にまりもが星になったような気がした。線香を焚きたい、と言った良太に、 私もまりもちゃんにあげたい、と奈緒が言って、部屋にあるおじいちゃんの仏壇から線香を二本持ってきて、庭に線香を立てて焚いた。その紫煙がゆらゆらと空に昇ってゆく様をぼんやりと見つめながら、良太と奈緒は長いこと手を合わせた。
また涙が止まらなくなった。
「えーっと、この通りをあとは真っ直ぐ行ってくれればいいよ〜、途中でサーティーワンが見えてきたら右に曲がるんだけど、そこから先はナビしまぁす」
みどりのそんな言葉に、はいはい、と答えた良太は、早稲田通りを真っ直ぐ車を走らせた。
香織は今も、まりものいなくなった部屋に、かつて良太とまりもと三人で暮らしたあの部屋に、一人で住んでいる。懐かしい町並みが見えてきて、オレンジ色の煉瓦造りのマンションが次第に近付いてくると、あの楽しかった、まりもがいた日々のことが猛スピードで頭を巡り、良太は自分の鼓動が定まらなくなった。車がマンションの傍を通りすぎる時、良太は周りに気付かれないように息を大きく吸って息を止めると早稲田通りに面していた五階の香織の部屋に目をやった。
部屋の明かりは消えていた。
決して大げさな言い方ではなく、今も毎日のようにまりものことを思い出す。道端で見掛けた猫を見る時も、そのやわらかい体に触れる時も、その向こう側にまりもの姿が見えるのだ。香織がどうか幸せでありますように、と良太は心から願う。そしてあの時まりもは、自分が病気になることで、今にも離れてゆこうとしている良太と香織を必死に繋ぎ止めようとしていたのではないだろうか、とそんなことを考える。バカげてる、本当にバカげている。そんなことは良太も分かっている。だけれどそんなバカげたことを考えるのも、良太が香織とまりもとの日々を心から愛していたからだ。良太はまりものすべてと、あのベランダから手を振る香織の姿が大好きだった。
「カスミぃ〜、寝るなよぉ、そろそろ着くぞー」
良太はそう言ってカスミを起こすと、鼻に貼られた絆創膏を手で押さえたカスミが、目をこすりながら恨めしそうに良太を睨んだ。
これから先、良太が歳を取って、今まで付き合った女の子のことを忘れることはあっても、まりものことを忘れることはないだろう。そこに香織も同居してくるというのなら、香織も一緒に連れてゆく。遠い昔に地球から打ち上げられたボイジャー1号2号が、我々の暮らす太陽圏を飛び出した今もなお、宇宙の彼方を旅しているように、香織とまりもも同じように、良太の心の奥の部分で、今もまだ旅を続けている。
だけれど今、後部座席でスヤスヤと眠るくるみと、それを優しい眼差しで見つめている奈緒をルームミラー越しに見て、僕の愛しい日々はここでこうして息をして、ここに存在しているのだ、と良太は思った。
そう思った途端、良太は突然どうしようもない哀しみに襲われた。
あの日、レントゲンに映し出されたまりもの肺を覆う黒い影が目の前にチラついて、それはいくら振り払っても振り払っても、良太の頭から消えてゆくことはなかった。
良太は、自分の胸にもそんな黒い影があることを知っていたが、それは良太だけに見えて他人には見えない、それは一生、決してレントゲンに映ることなどない影なのだ、と思った。