孤独の扉の開き方

  • 2013.12.25 Wednesday
  • 23:50


だいぶ前、馴染みの居酒屋で呑んでいた時のこと。
それは確か深夜二時くらいのことだったか、
ギャンブルで大負けしてスッカラカンになってしまった、という六十過ぎくらいの親父がかなり酔っぱらった様子でやってきて、このまま手ぶらで家に帰っては女房に合わす顔がねぇ!と可愛いことを口にしながらカウンターにドカッと腰を下ろすと、

「おぅ!手羽先の唐揚げを二人前土産でくれ!あとはビールもだ!」
と偉そうに注文した後で、傍らにいた僕をひと睨みした後でこう説き始めた。

「おい、兄ちゃんよぉ〜、人生はよぉ〜、セックスと土地と金はよ〜!」
「セックスと土地と金、、、?」
「そうよ!セックスと土地と金はよぉ、人生はよぉ〜!ローリングスト〜ンズ!」
「ローリングストーンズ!?」
「分かるか!黒く塗れ!よ!ミックジャガー!わっはっはーっ!」
「むー、、、」

もはや親父のその口調から、それが酔っぱらいのただの戯れ言なのか、それとも親父が長年胸に抱いてきた持論なのか、それは僕にはちょっと理解し難かったが、その親父の言っている意味はまるで分かならないワケでもなかった。
しかし確かに、確かにそれが人生だと言われれば一理あるかもしれないけれど、人生がセックスと土地と金だなんて言い分は、まるで夢なんてとっくに捨てた四十過ぎのしがないサラリーマンが、飲みの席で仕事と金と愛人の話でしか盛り上がれないのと変わらないじゃないか、とそんな物悲しい気持ちになってきて、親父の言葉は秋の枯れた空気のように僕の左の耳から右の耳へ抜けると、トイレの水洗便所の中へと冷たく流れていった。

お待たせしました、と店員さんが言って親父がお土産の手羽先を手にする。

「おぉぉ、、、兄ちゃん、騒いで悪かったな、ローリングスト〜ンズ!サティスファクションよ!わっはっはー!ミック!ジャガー!!」
いきなりやってきて、いきなり高々と演説のような講釈をたれていた親父は、今度は高々と右手を上げて、陽気に叫びながら店を出て行った。

そんな親父が千鳥足でのれんをくぐりながら去ってゆく後ろ姿をぼんやり眺めながら、その話のいったい何がローリングストーンズで何がサティスファクションなのか、もうそんなことを考えること自体バカらしくなってはいたが、あの親父はきっと悪い人なんかではないのだろうな、と思った。
だって、酔っぱらってミックジャガー!と叫ぶ親父に、悪い人なんていない。

たぶん、きっと、ただ孤独なだけなんだ。

大人って孤独だな、と思うようになって久しいけれど、仕方がないよね、別に隠し事をするつもりなんてないのに、大人になると口に出来ない苦い物事が胸の中に増えすぎて、何年も大人をやっているのだからそうした苦味に慣れてもよさそうなのに、いや、やっぱり苦いモノは苦いなぁ、と胸の苦味を噛み砕いては人知れず憂いてみたり。

そんな時、信頼という言葉が頭にフワッと浮かぶ。
信頼って、言葉にすると何だか仰々しいし、その始まりこそ与える者と受ける者、という分かりやすい構図から芽生えてくるものだとは思うけれど、簡単に言ってしまえば実績みたいなモノで、お互いが過ごした時間の中で、相手が気付いていないような小さいモノから、“あの時に助けてもらった” という実態のある大きなモノまで、図らずもお互いが感じ得ることが信頼の礎となることは間違いないし、単純にその人に逢うだけで元気になる、なんて人もいて、あれも確かな信頼の一つなのだと思う。

信頼と感謝はワンセット。
大人になると、心から信頼を寄せることの出来る人がいるか、逆に自分も他の誰かに信頼を寄せてもらえているか、それを実感出来るか否やで、ずいぶんと心の孤独値も変わってくる。

そんな時、自分が信頼を寄せる友人や人々のことは揺るぎのないものだからいいとして、自分に信頼を寄せてくれる友人や人々なんて本当にいるのだろうかと、そんなことを考え始めると正直不安になってくる。
この歳にもなると、昔は綺麗事にしか聞こえなかった「誰かのために生きる」という行為や行動がとてもシンプルなことに思えてきて、自分のために生きることよりも、誰かのためになることに力を注ぐことのほうが、自分の中から遥かに力が湧いてくることに気付く。
だって、嘘というまな板の上で真実を嫌々調理するくらいなら、真実というまな板の上で嘘を上手く調理してあげることのほうが遥かに逞しいし、そのほうが遥かに誠実だと感じているからだ。

料理なんていい例だよね。
一人だけで食べるなら、納豆だってパックのままでいいし、刺身だって餃子だってそのままでいい。
けれども、そこに誰かがいるのならやっぱりお気に入りの器に移して差し出したいし、箸置きだってきっと用意する。
餃子だったらスーパーの惣菜モノや冷凍モノなんかではなくて、きっと自分で作ってしまうのかもしれない。
それを、何カッコつけてるの?一人の時にはそんなことしないくせに!なんて言う人もきっといる。いや、実際にいた。

まったくその通り。
おおいにカッコつけている。
でもそうじゃないんだ。
相手がそこにいるからこそ、そうしたいと思えることがたくさん生まれるのであって、カッコつけたいと思う気持ちは決して無理をしているのではなくて、それを気持ちいいと思っているからこそ出来ることなんだよね。
そして何よりも、それをした時に初めて、表面的な触れ合いといった部分が解けて、本当の意味での相性や大事な部分がお互いに見えてくるのだと、僕はそう思っている。

時が流れてゆくのと同じように、環境も人も流れてはまた変わってゆき、怒り方や忘れ方、考え方ややり方といった価値観も変わってくる。
だからいつまでも同じ場所にこだわって無理に留まっている必要はないのだと思う。
友人や経験にしても、それらは財産とは昔から言うけれど、だからといってそれを無理やりにまで守ろうする必要もないのだと思う。
大事にしていたいと思っていても、環境的な理由やら何やらの理由でいつの間にか会わなくなってしまった友人や人々なんてたくさんいるし、つまらない経験をプライドに昇華させてしまったおかげでそれが足かせになり、歩こうとする道を塞いでしまうことだってたくさんある。

けれども自らのプライドは自らの手で処理するからよしとして、何となく繋がっているような友人でも、実は心の中ではいつも気にかけていて、その人のための指定席がいつの間にか出来ているというか、そこはいつも空けておきたい 、と思えるような相手はやっぱりいて、そんな人と逢って、欲しかった信頼や築いてきた信頼や、再び芽生えた信頼をテーブルの上に並べながら肩を並べてそれをつまみにして呑んでいたりすると、そこに辿り着けたことが嬉しくなり、目の前の美味い焼き鳥なんかより、なんだろう、どうもありがとうという気持ちになる。
そしてそのような信頼する相手と一緒にいると、自分のダメな部分を寛容に受け入れてもらえたような気がして、だからやっぱり、どうもありがとう、という気持ちになったりする。

だから、大人は孤独だけれど、それを誤魔化すために誰かとワイワイ呑めるのならまだマシで、例え時間が掛かっても、愚かな自分のせいで人に迷惑をかけたり失敗を繰り返しても、一人でも多くの信頼を寄せ合える人間を育んで心の傍に持つことや、一人でも多くの人に自分を信頼してもらえるような人間になることが、きっと豊かな大人になるための義務でもあり、孤独という扉を開くことの出来る鍵を手にする唯一の手段なのではないかと、そんなことを考える。

だって人は、人から信頼されることで自分を大人にさせてもらえるのだものね。
それは自信もまた同じ。
大人としての自信を得るために一番効果的なのは、自分のしている仕事を周りに評価してもらうこと。
そして最も理想的で崇高なのは、そんな自信を周りの人に分けてあげられること。
そうすればね、孤独感という、極当たり前で陳腐な感情が消えて無くなることはなくとも、安心して手を繋ぐことが出来るし、少しは胸も張れるはずなんだけどね。

まぁね、それはあくまで理想であって、自分にはまだまだ遠いなぁ、と思う日々なのだけど。

何はともあれメリークリスマス。
明日は今年最後のライブだなぁ。
今、大事だと思う人々に想いを馳せて、ワンダフル。

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