他愛の無い、煮え切らない話

  • 2014.08.29 Friday
  • 12:31


ジャン・ジャックベネックス監督の『ベティ・ブルー』という映画の中で、ベアトリス・ダル演じるベティが、小説家を夢見ながらもパッとしない自堕落な日々を送り続ける、ジャン・ユーグアングラード演じるゾルグに向かって、少しはあなたを尊敬させて!と詰る場面がある。

この映画に初めて触れたのは自分がまだ高校二年生の時で、冒頭からいきなり画面いっぱいに始まるベティーとゾルグのセックスシーンや、ゾルグ三十歳、ベティ十八歳という歳の差の設定を始め、ベティの痛いほどに真っ直ぐなゾルグへの愛情の傍らで、ベティの奇異に満ちた言動や行動を必死に受け止めようとするゾルグの歪んだ愛情、激情の日々の中に溢れるユーモアやその果ての顛末に心を奪われて、たぶん今日までの人生の中で最も繰り返し多く観た映画だろう。
ベティーブルーという映画は、世間一般的に重い映画と捉えられている節があるけれど、それは確かに間違った解釈ではなく、後味が決して良い映画とは言えない。
けれども後味も決して良くはなく、身体にも良くないジャンクフードを今も多くの人々が食べ続けていることと同じように、ベティーブルーという映画は説明し切れない魅力と、ハマる人には何度でも観たいと思わせる強い副作用を持っている。
なので影響を受けた場面や印象に残っている場面はたくさんあるし、そこに付随する好きな台詞もたくさんある。

けれども今、自分の胸に去来して頭の中に繰り返し聞こえてくるのは、
「少しはあなたを尊敬させて!」
と激しくも哀しく詰るベティの声。
その台詞だけが聴こえてくる。
それが自らの耳と胸にひどく痛く響くのだ。

尊敬出来る人間が周りにいてくれることは幸せなことだ。
なぜなら、その人の生き様やその人が発する言葉から多くを学ぶことが出来るし、結果として自分の背中を押してもらえる恩恵に溢れているから。
まぁね、尊敬なんていう感情は理由が無ければ始めから存在しているはずなくて、強いて言うならそれは尊敬ではなく「憧れ」であり、決して尊敬という大げさな感情なんかではないし、そもそも尊敬なんて感情を始めから抱いていたらお互いのパワーバランスも含めた関係が偏ってしまうこともある。
尊敬とは時を重ねて相手を知った上で芽生えてくる確信的な感情であって、相手のことを大して知りもしないのに好きと言ってしまうような、そんな軽薄な思いとは違う。
簡単に人を好きになる人は信用しない。
よく言っていることだけれども、簡単に人を好きになる人は、同じ力で簡単に人を嫌いになることが多いから。
ただ、大げさな感情とは言ったものの、尊敬という思いはそこまで重いわけではないし、立派である必要も無い。
とんでもないろくでなしな人間でも、十あるうちの一つでも尊敬出来る部分を相手の中に見出すことが出来れば、その一つの力でどうしようもない残りの九つも許せてしまう。

つまり尊敬とは、相手のダメなところも含めて愛し許せることだと思っている。

最近思う。
教えてもらうことと、導いてもらうことは違うのだ、と。
その逆もしかり、教えることと導くことは違う。
人に教えることなんて誰にだって出来る。
それが分かりやすいか分かりづらいかはまた別の問題としても、
例えスーパーで働くやる気のないパートのおばちゃんだって、レジ打ちやレジ締めくらいは人に教えることが出来る。
あれをしろ、これをしろ、これはこうやるんだ、いいか、わかったか。
そんなことは居酒屋にいる酔っ払いのオヤジにだって出来る。
けれども相手の心をグッと掴み、まるで手を引かれ導かれるように、今までとは違う景色が見える場所へと人を導くことが出来るような人間は早々いない。

そう、早々いない。自分もそんな人間だ。

あの時ベティーがゾルグに対して放った「少しはあなたを尊敬させて!」と詰った意味は、いつまで経ってもベティーを外の世界へと導くことが出来ずに、ずっと煮え切らない場所へ滞留しているそんなゾルグに対しての感情が爆発して口をついた言葉なのかもしれないし、簡単に言ってしまえば、あなたにもっと夢を見させて欲しい、という意味だったのかもしれない。

磨けば光る宝石だと信じて手にしていたモノが、実はただのガラス玉だった。
実はガラス玉だと思っていたモノが、実はとんでもない宝石だった。
無論、ガラス玉と宝石の価値は違う。
けれど遠目から見てその違いが分かる人間がどれくらいいるだろう。
それこそ専門的な知識や見識が無ければ、近くで見たところで見分けは困難だ。
もう一度、ガラス玉と宝石の価値は違う。
けれど素晴らしい宝石を身に纏っていたって似合わない人は似合わないし、ただのガラス玉を身に纏っているだけなのにキラキラと輝く人だっている。
ユニクロの服がダサいのではなく、それを着こなせない人間がユニクロを着るからダサくなるのと同じ。
極論を言えばガラス玉でも宝石でも何だっていいわけで、人生は自分に似合う服を見つけた者の勝ちなのだ。

それを見つけるまでの間は勘違いと恥はワンセット。
目指すモノがあるのなら、勘違いも恥も悪くは無いし怖くもない。
けれども、自分のせいで他の誰かを煮え切らない場所へとずっと滞留させてしまっているとしたらどうだ。
それはあまりに不本意なことだけれど、そんなことを考えると怖くなる。

尊敬といえば、俺はビートたけしも尊敬する人間の一人で、これは以前もワンタイに書いたことなのだけど、たけしが昔のバイク事故のことについて語っていた記事を読んでね、その頃たけしは映画を撮り始めてしばらく経っていた頃で、けれども周りや世間から全く評価してもらえずに、俺ダメなのかな、俺の感覚は鈍ってるのかな、って、自暴自棄になって酒飲んでバイク運転して事故ってあんな酷い事故になっちゃった、って書いてあってね。
あのたけしがだよ?
あのたけしでもそんなことを思うのか、って、衝撃と安堵が同時にやってきた。
もちろんビートたけしと自分を比べることなんて無いけれども、この逸話は時折自分をふっと励ましてくれる印象深い話として、今もよく思い出す。

俺はつまらない歌を歌ってるのかな、と、時々ヘコむ。
だけれどあのたけしだってそんなことを思うのだからみんな同じなのかな、とやっぱり考える。
自信満々のヤツなんてむしろ信用ならないし、きっとそんなことを考えている自分こそが自惚れているのかも分からないよね。
どんなに哀しいことや苦しいことがあっても笑っている人間はいるし、人に対しての醜い嫉妬を胸に秘めていても寛大なフリをしている人間はいるし、ホントのことなんて分からない。
だって世の中でたくさんの秘密が潜んでいる場所は、人の胸の中だからね。

だから話はまた戻るけれども、ベティーブルーの何が哀しいって、ベティーがいったい何を考えて、どんなことを思っていたのかがまるで分からないまま物語が終わってしまったことなんだよね。
あなたのことが嫌いになったの。
他の人を好きになったの。
だから今までありがとう、さようなら。
それでいい。
その時は苦しいけど、分かりやすいじゃない。
でもね、何を考えていたのか結局分からないまま別れてしまう。終わってしまう。
コレ、一番哀しくて引きずるんだよね。
だから分からなかったことを少しでも知りたくて、また触れたくて観てしまう、それがベティーブルーという映画の本質。つまり残酷、ってこと。

別にベティーブルーの映画について書こうとしていたわけではないのに、随分とベティーブルーの話が長くなってしまった。
でも誰かの背中を押してあげれるような、誰かを安心させる場所へと導いてあげれるような、せめて一つの扉を開けて風通しを良くさせてあげれるような、そんな人間になりたいよね。

たぶんそんなようなことを書きたくて新曲の歌詞を書いていたのだけど、途中で煮詰まって気晴らしでブログを書いてみたものの、歌詞同様こっちも何を言いたいのかよく分からない煮え切らない話になってしまった。一ヶ月ぶりの更新なのに!
というより、一ヶ月ぶりに書いたりするからこんなことになるのだろうね。

そんなわけで皆さま、スーパーにサンマが並び始めましたよ。
秋の魚といえばサンマなのに、鰍はサンマではなくカジカ。サンマは秋刀魚。
でも、タチウオに太刀魚という名称が付けられたことを思うと、サンマが何故鰍ではなくて秋刀魚になったのか実に合点がいく。

それでは新曲の歌詞を書く作業に戻ります。
涼しいって、頭の中もサラッとして気持ちがいいよね、実に。
この曇り空の向こう側には秋の空が待っている。
秋も、新曲の完成も待ち遠しい、そんな昼下がり。

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