コピーアンドペースト

  • 2016.01.06 Wednesday
  • 20:00


毎年毎年、正月に書くことなんて決まっているのだから、いっそのことここはコピペでも構わないじゃないか、という気もするけど、文章だからコピペなんて言葉があるものの、毎朝仕事先で口にするおはようございます、という挨拶なんて、ある意味コピペのようなものだ。だってそこにどれだけの想いが込められているのかと問われれば、ただ無感覚に口にしているだけのほうが遥かに多いはずだし、それに比べれば文章での挨拶は表情は見えないものの、遥かに想いを込めて書いている。
何せコラムカテゴリーとしてワンタイを書くのは昨年の四月以来八ヶ月ぶり。
今まで何をしてたんだ、ということはさて置きとしても、お久しぶりです、という挨拶もあるのにコピペなんてするわけにはいきません。
ということでワンタイを訪れてくれた皆さま、心を込めて、新年明けましたねおめでとうございます!
(そもそもこんな短文をコピペする必要は無い!)

それにしても2016年ですよ、2016年!
長い長い間人々の心に棲みついて、西暦1999年を迎えることに恐怖を感じていたノストラダムスの呪縛から解き放たれてから早17年。今や若い子たちにノストラダムスと言っても、あー!マリファナ吸える国ですよね!なんてトンチンカンな返事が返ってきて、あのね、それはアムステルダムだよ、、、と教えてあげても、あ、そうでした!間違えました!運河でしたね!なんて言われて、運河?とこっちの頭が少々混乱してしまうほど、ノストラダムスは取るに足らない存在に成り下がってしまったが、考えてみればルパン三世の山田康雄だってドラえもんの大山のぶ代だって今の子たちはきっと知らない。
それもそうだ、だってその逆も然りで、山田康雄を引き継いだクリカンならまだしも、大山のぶ代のドラえもんを誰が引き継いだのかなんて、ウィキペディアでも開かない限りおいらだって知らないのだ。

でも知らないことは恥ずかしいことでも何でもないよね。むしろ知らないという事実を知ることで、自分はもちろん、相手が今日これまでの間にそれらの物事に対して何の興味も抱いてこなかったことを知ることが出来るのだから話は早い。
知らなかったことを知れたことで興味を抱くきっかけになることもあれば、知らなかったことを知ったことで、いよいよ決定的に興味を失くすきっかけになることだってあり得る。あぁ、だから人って面白い。
このワンタイというブログにしても、なぜ八ヶ月も更新しなかったのか、という理由は誰も知らない。
ただ、拝読する意思が無くとも受動的に目に入ってきてしまうTwitter等のSNSとは異なり、ブログは受動的とは違う、興味を持ってもう一歩踏み込んでくれた人たちが訪れる場所だと思っているので、おいらももう一歩踏み込んで書き綴る必要は、ある。何があったかを伝えたいわけではなく、それらを通して何が残って何を思ったのか、そうした心情を少し書くことくらい、ここを訪れてくれた人たちに対しての礼儀なのではないか、と勝手に思っている。
ではなぜ八ヶ月もの間もワンタイを放置していたのか。
それはズバリ。おいらだってよく分からないのだ。

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便りが無いのは良い便り。
最近の在宅老人たちの末路を思うと、そんなことももう言っていられないだろう。
便りが無いのは死んでる便り。
ま、いくら何でもこれは不吉だ。

ただ去年の一年間は、とてもモノ作りをする人間とは思えないほど、アーティストとしては完全に終わっていたと思っている。
もちろん良いことも嬉しいこともたくさんあったけれど、それはただ自分自身の利益に限られたことで、自分が誰かの役に立っているという実感がまるで希薄な一年だった。なのでこれを糧にして今年は、、、というより、人として有益な時間を得てこれなかったこと、いや、与えてこれなかったことへの憂いは、一年ぶんのブランクを背負ってしまったくらいの気持ちでいる。
ウサギは寂しいと死んでしまう動物と聞くけれど、人間は寂しくたって別に死にやしない。
けれども、誰の為にもならないような時間を多く過ごすことはやがて人間の心を貧しくさせる。貧しくさせているのは何だ。それはただ心の中で様々なモノが死にかけているからで、むしろそこに何も無いのだ。
それは寂しいなんてもんじゃないし、悔しいなんてもんじゃないし、情けないなんてもんじゃない。でも巡り巡って同じ場所をぐるぐると回るから、よく分からなくなってくる。だから死んでしまいたい、とかろうじて思うかも分からないけど、そんな勇気も無いし、そもそもそんな気も無いし、それも踏まえて生へのエネルギーのほうが遥かに勝っているから、ウサギの気持ちはやっぱり分からない。

さきほど、知らないことは恥ずかしいことではない、と書いたけれど、知ってしまうことで怖くなったり躊躇を覚えることに比べれば、知らないことで恥ずかしい思いをしたり怒りを覚えたりすることのほうが質量が軽い気がしてのことだ。
だって総じて言えば、知らなければ許すも許さないも無いけれど、知ってしまうことは、それを許せるかどうか、という本質に繋がって深く問われるわけでしょう。
おいらは人に迷惑ばかりかけてきた人間だから、人に対して人に迷惑をかけるな、とはとても言えない。もし言えるとしたら、これからもお前に迷惑かけるから、お前も俺に掛けてくれ。それだけに尽きる。
でも言えない、って何だろう。それは負い目も理由のひとつ。負い目が増えれば増えるほど、言いたいことは次第に言えなくなるし、言葉の説得力は急速に失われる。そもそも言葉の説得力云々の前に、キュークツになっている心からそんな言葉が生まれるわけがないし、そんな人間が偉そうに何かを言ったところで、あいつ何言ってんだ、となる。
俺は(私は)今までの人生の中で負い目なんて一つも無い、と胸を張って言える人ももちろんいるだろう。でも自分は違う。負い目を背負うことが悪いことだらけとは思わないけれど、やっぱり荷物は軽いに越したことはないし、やっぱりそのせいで誰かに迷惑はかかっている。心を身軽に保ちたいのなら、自分が望むような自分であり続けたいのなら、自分が思うように人に何かをしてあげたいのなら、出来るだけ負い目を持たないことか、減らすことだろう。
そして心を強く保ちたいのなら、誰かの荷物をそっと預かってあげることだ。
そして内田裕也ならきっとこう言うだろう、バカ野郎、人に迷惑かけなきゃロックじゃねーよ、大事なのはそれを許せるかどうかなんだよ、サンキューロックンロール。

内田裕也がテレビでコメントを口にするたび、ロックンロールは関係ねーだろ、といつも思う。
でももし内田裕也がそんなことを言っていたら、おいらはきっと許してしまう。

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去年はずっとそんな日々の中にいて、自分に足りないモノばかり探して搔き集めていたら、逆に余計なモノばかりが増えていた。
そしてワンタイは、余計なことばかり書いているような気がして、更新をためらったり消去したりを繰り返していたのだが、余計だと思っていたことにこそ大事な言霊が潜んでいて、いざきちんと書こうと思ったら、すっかり書く力が失くなっていた。
今回だって危ない。ただでさえ書くことに長けているわけでもないのに、この八ヶ月のブランクでこんなまとまりの無い文章をここまで羅列させている。危険だ、更新するのやーめた、となりかねない。
でも新年の挨拶を考えれば、鏡開きまでの間に更新する必要があるし、僕、人生楽しんでます!今日友達とこんな遊びをしたよ!友達多いっしょ!ライブ絶対観に来てー!
書きたくないよね、そんなこと。そんなアピールをしたいだけの場なら、とっくにブログなんてやめている。

消えたと思っていても、大事な場面や肝心な瞬間で不意に顔を出してくるのがMr.コンプレックス。
やぁ、またおまえさんかよ、となる。
哀しみやコンプレックスは質量が重いから常に沈殿する宿命にあるけれど、あくまでもそれは沈殿であって、殆ど消えることは無い。時が経って上積みが幾らキレイになったところで、自ら掻き回してしまったり、他者から掻き回されたり激しく揺さぶられたら、それまで沈殿していたモノはあっという間に広がって上積みをそれらで染めてしまう。だからまたそれらが沈殿してゆく様をしばらくジッと見つめながら、時々上積みだけをドボドボと注ぎ足してみたり、容器そのものを入れ替えてみたりするのだけど、結局は上積みを注ぎ出そうと容器を入れ替えようと、ましてや沈殿する時をジッと待ちながら見つめていようと、そんなことをしていたって問題はいつまでも解決しない。
キレイな上積みだけを飲もうなんて都合が良過ぎるし、上積みだけ相手に飲ませることもまた然り。
むしろ掻き回して薄くなった時こそ、それらを一気に飲み干す絶好の機会ではあるまいか。今回のワンタイはまさにそんなモノ。

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「ちょっとおやじさん、大丈夫?」
年齢は六十五、六、と言ったところだろうか、まるで土下座でもするかのように路上に額を擦り付け、体を小さく丸めながら微動だにしない男の傍を、怪訝な表情というより、無関心な様子で通り過ぎる人々の中で、おいらは男の肩をそっとたたく。
別に親切にしてやろうと思ったわけではない。ただ、仕事場の入り口を塞ぐように男がうずくまっていたので声を掛けた、と言ったほうがきっと正しい。
埃だらけのボア付きの紺のジャンパーから、どこが発生源かは分からないが、何日も風呂に入っていないかのような、あの脂っぽい特有な男の臭いが鼻をつく。返事がない。一瞬死んでいるのかと思ったが、どこかに怪我を負って血を流している様子は見受けられなかったし、顔を近付けてみると、うぅ、と小さな声をあげている。

「おやじさん大丈夫?どうしたの、生きてる?」
おいらは再び男に声を掛ける。
「○△×?∩∞≦♯〜〜」
「え、なになにー?」
「あしがよー、、、うごかないんだよォ、、、もうよー、、、」
ひどく小さな声だったが、おいらの呼び掛けにそう答えると、沈痛な表情を浮かべながら寝返りを打つようにして、男はそのまま路上に仰向けになってひっくり返ってしまった。
「あらー、、足かー、、、痛い?立てる?いけそうなら手ぇ貸すよ、ほら」
「○△×?∩∞≦♯〜〜」
「なになにー?おやじさんおうちどこ?帰れるー?とにかくこんな道のど真ん中で寝てたら蹴飛ばされちゃうよー」
「いいんだよォ、、、死んだってよぉ、、、もうよォ、、、おれなんかよォ、、、もう死んだってよォ、、、」
「わかったわかった、もうしょうがないなー、どうする?これおまわりさん来ちゃうよー」
おいらがそう言うと、男はびっくりするくらい小さな目を開けながら、
「にいちゃんわるいなぁ、、、わるいなぁ、、、いいんだよォ、、、おれなんてよォ、、うぅぅぅ、、、」
と言った。

こんな時、村上春樹の小説なら、やれやれ、という台詞がピッタリだろうな、とおいらは思った。
頭上では街のネオンがギラギラと光って、至る所から奇声や笑い声や音楽が聞こえる。短いスカートを履いた女の子二人組が向こう側からやってきて、今まさに、仰向けに倒れている男の顔のすぐ傍を通り過ぎようとしている。彼女たちにとって、目の前の男はもうすでに男ではなくて、その辺に転がっている石ころと大して違いはないのだろう。もしおいらがここに横たわっていたら、さすがにこんな顔元の上を通り過ぎようとはしないはずだ。
おい、チャンスだぞオヤジ!目をかっ開いてかわいいパンツを拝んでしまえ!

そんな時、やっぱり誰かが通報なり交番に伝えに行ってあげたのか、予想通りおまわりさんがやって来て、さっきまでのおいらと同じように、あーあぁー、どうしたの!ダメだよこんなとこで寝ちゃ!と言いながら男の肩をポンポンとたたく。
「ほらー、来ちゃったおまわりさん!うーし、じゃあ帰るよー、またね、おやじさんしっかりねー!」
「うぅぅぅ、、、にいちゃんありがとうなぁ、うぅぅぅ、、、」

男に何があったかなんて知らないし興味も無いけれど、どこを切り取っても強欲そうな街の喧騒と男の小さな生命力の対比が何とも生々しく、自分は何てまだまだ若いのだろう、と思った。あんな風にはなりたくない、と思ったわけではない。むしろ自分がいつあんな風になってもおかしくないとすら思う。
けれども何だか正体不明の勇気が湧いてきて、生きてるって、つまりこういうことだよぁ、と、日々への愛しさがふつふつと込み上げてきたのだ。
家族も友達も、仕事もしがらみも、好きな人も苦手な人も、お酒に酔っ払うことも女の子に酔うことも、歌を歌うこともギターを弾くことも、毎日はほぼ同じことの繰り返し。
でもそれは、コピーアンドペーストとは違うのだ。

たくさん持つことが必要なのではない。
必要なものを傍に、そして誰かのために必要な人であれますよう。
だからどうか、みなさん今年もよろしくお願いします。



『鈴木ナオトバンド 2015年もどうもありがとうドキュメント』2015.12.29 新宿OREBAKO

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