シンパシーを語る

  • 2013.03.06 Wednesday
  • 04:30


自分が今までお世話になった人たち、今の自分を取り巻く環境の中で感謝している人たちというのは数え切れないほどいて、その中でも始まりのきっかけを作ってくれた人や、自分が浮上するきっかけを与えてくれた人のことを僕は今だって、一度だって忘れたことはない。
あの人がいなければオレは今ここにいれなかったな、あの時出逢っていなければ、オレはまた違った日々を過ごしていたのかもしれないな、人生とはそんな出来事や想いの連続である。
定年までサラリーマンを全うしようと決めていたのに、ある人との出逢いから脱サラして独立してしまったり、長く付き合った恋人といつか結婚するものだと信じ切って一緒にいたのに、ある日何となく立ち寄った店で知り合った相手とビビッときてしまい、その相手とスピード結婚してみたり。
そんなことが本当に、本当にそこかしこで起きているのが、誰も解明も説明も出来ぬ人生の摩訶不思議だったりする。

そういう時、そうした出逢いが自分にとって良かったのか悪かったのかなんて、そんなことを考えてはいけない。
それは間違いなく、それは間違いなく良かったに決まってるのだ。
だからこそ、そんな人たちには感謝の気持ちを言葉だけで伝えて終わらせてしまうのではなく、今も親しくさせてもらえているからこそ、何か形あるモノを返したい、と考える。

けれども言葉では足りず形あるモノとなると、当然「モノ」しかないワケだが「モノ」を買うにも相手の趣味と合わなかったらどうしよう、とか、もしすでに持っていたらどうしよう、などの思考が頭をグルグルと巡って必要以上に慎重になってしまったりして、その度に、これじゃまるで告白前の乙女のようだな、とひどくもどかしい気持ちになったりして。

しかしそれ以前の問題、つまり先立つモノが無い場合はどうすればいいのか。
「金の切れ目は縁の切れ目」とは先人さんたちは上手いことを言ったもので、悔しいかなそれはその通り。
この世の中、金が無くなると縁が薄くなるモノがたくさんあることに辟易としつつ、まったくその通りだなと、今自分がいい歳になってしまったからこそ、尚更その痛みが増す。

自分の与えられるモノが自分自身の時間を捧げるようなことであれば、それは幾らでも捧げられるし、それを後から取り返すことなど自分次第でどうにでもなるのだが、冒頭で述べたような人たちに対して感謝の気持ちを形にしたい時、先立つモノが無いが為に気持ちを表せられないままでいるのは、まったくもって不徳の致すところであり、自らの甲斐性の無さにただただ情けなくなるばかりである。

本当は、言葉なんて信用していない。
言葉を信用出来る瞬間は、その言葉の奥にあるシンパシーを感じたり見つけることが出来た時のみなのだ。
今自分が発する言葉にどれくらいのシンパシーを込めて相手に伝えられているのか。それはもはや言葉の力云々の話ではなく、言葉を交わす人間同士の信頼が問われる瞬間なのではないか、と最近はひしひしと感じている。

そんな時、僕の中で誰かがそっと耳打ちする。

「感謝は分かったから。だからもうそろそろ、お前の答えを見せてくれよ」

これは決して、これは決して夜中の戯言なんかではない。

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